「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

まだ数年は続くと思っていた、愛猫「ぺい」との平凡な日常。
しかし、その後の誤診と突然の癌宣告...。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見た記録です。

十一年と百十八日

今日は、ぺいが旅立って二日目。とてつもなく悲しい。悲しくて悲しくて仕方がない。ぺいが生まれたのは、二〇〇三年の二月十日。どれだけ日数を生きていたのだろうか?少し気になったので、インターネットで日数計算というキーワードで検索してみると、計算の出来るサイトがあった。入力してみると、十一年と百九十四日だそうだ。それと、我が家に来てからだと、十一年と百十八日だった。十一年と百十八日。私が、今まで歩んできた人生の時間軸で考えても結構な割合であった事になる。ましてや、そもそも、人生は一度しかない。そんな一度しかない人生で、これほどまでの気持ちになる事なんて早々ない。そう思うと、なおさら、ぺいと一緒に過ごしてきた十一年という歳月が、どれほど大切であったのかと再認識させられる。それにしても悲しい。どうして、こんなにも悲しいのか?やはり、一緒に過ごしてきた時間が幸せだったのだろう。では、幸せってなんだろう?それは、どれだけ多くの喜怒哀楽を共有してきたかという事のように思える。そうして、ゆっくりだけど時間の経過と共に少しずつ頭の中が整理出来てきた。ぺい、ありがとうな。一緒に過ごしてきた時間や記憶は、今まで生きてきた人生の中で一番大切にしたい思い出になったよ。そう思えてきたのだ。それにしても、今日の日中は、頭の整理が出来ないまま仕事をしていた。身体は職場でも頭の中は混乱して心は異空間を彷徨っているようだった。ただ、そうした中で、心に決めた事があった。それは、あらためて神社にお参りするという事だ。なぜなら、ほんの少しの間であったけど、神様に対して不満を抱いていた事を正直に詫びて、逆に感謝したいと心の底から思えたからだ。神様への感謝。不思議なもので、考え方を変えてみると全ての出来事が感謝すべき事のように思えてくる。例えば、先生から宣告されていた余命の期間もそうだ。余命の期間には、一か月から三か月という幅があった。でも、ぺいは、その最も長い期間を一日も余す事なく生きて、その翌日に旅立った。それと、最期に立ち会う事も出来た。さらに、最期は、休日一日目の土曜というタイミングだったし、翌日に粛々と火葬を終える事も出来た。そして、その火葬を終えた時の時刻は、ぺいが旅立った前日の時刻と同じだった。パッと思いつく事だけを並べてみても都合の良い偶然が多すぎる。これらの事には、何か目に見えない力が働いているような気がしてならない。もしかして、神様の力のようなものが働いているのか?もし、そうだとすれば、神様には感謝すべき事だらけということになる。それと、もう一つ思うのは、そもそも、ぺいと出会った事、ぺいが癌になって旅立っていった事には、最初から何か目的があったのではないだろうか?もしかすると、ぺいは、この世に何らかの使命があって生まれて、その使命を終えられるという事で、神様のところに戻っただけではないだろうか?もし、そうだとすれば、ぺいとの出会いは、神様からの贈り物だったという事になる。不思議なもので、なぜか時間の経過とともに、そう思えてきた。

 

それと、もう一つ、昨夜から考えている事がある。それは、神様に、お願いしてきた事についてだ。私は、癌が良くなって、三~四年ほど寿命が延びてほしい、せめて平均寿命ぐらいまでは生かせてほしいとお願いしてきた。でも、普通に考えると、今の医学では、どうしょうもない事を神様にお願いしてきたとも言える。ただ、逆に言うと、今の医学ではどうしょうもない事だからこそ神様にお願いしてきたとも言える。でも言えるのは、いずれにせよ好き勝手な事を一方的にお願いしてきたという事だ。しかし、それであるにも拘わらず、私は、それが叶わなかった、叶えられなかったという事で、神様を責めたり神様に不満を抱いていたのだ。正直、自分の考え方を冷静に見つめ直してみると、あまりにも身勝手であったのでは?と思えてくる。これらは、極端な例で考えてみると分かり易い。例えば、永遠の寿命を幾ら願ったところで、そんな事、絶対に叶いようがない。そう考えると、いくら神様だって、出来る事と出来ない事があるのではと思えてくる。そこで、あらためて、神様が出来そうな事と、出来そうでない事という見方で考えを見直してみると、実は、神様は、私の願い事を、可能な限り受け止めて、最大限の力で叶えてくれたように思えてくる。神様は、それほどまでに願うのなら、余命宣告された最も長い期間までならばと、出来る限りを尽くしてくれたのではないだろうか?それと、ぺいだって、私の気持ちを察してくれて、癌で身体がボロボロになっても、最後の最後まで、一日一日を、私のために一生懸命頑張って生きてくれたように思える。それにしても、ぺいは、一日一日という時間が、どれほど辛く長かっただろうか?本当に感謝してもしきれない。きっと、神様とぺいは、私の願いに懸命に応えてくれたに違いない。それは、目には見えないけど、確かに感じる。それと、今までは、飼い主である私が、てっきり、ぺいを見守っているとばかり思っていたけど、実は、ずっと、私の方が、神様とぺいから見守られていたのかもしれない。もし、そうだとしたら神様とぺいには感謝してもしきれない。神様とぺいに、お礼をするとしたら何だろう?そもそも、私だからこその出来る事があって、それで、何か期待されているような気がしてくる。そういえば、火葬を終えた後、「本当に本が書けるぐらい色々な事があったね」と、母が話していた。今、ぺいが旅立った事で感じているぺいとの出会いの意味。もしかすると、ぺいと十数年前に出会った事は、実は、必然で偶然ではなかったのかもしれない。そして、平均寿命と比べれば、少し短かったかもしれないけど、一緒に過ごしてきた十一年という年月は、私の人生にとってかけがえのない凄く大切な宝物。もしかして、神様とぺいは、二人三脚で、そんな素晴らしい宝物を私の人生に授けてくれたのではないだろうか?

 

 猫は人間とは姿容が違う。言葉だって話せない。だけど、逆に考えれば、姿容が違う事と言葉が話せないだけの違いとも言える。そう考えると、人間だって猫だって、魂という本質的な部分では、微塵の差もないと言える。だから、命は人間も猫も全く対等という事になる。もちろん、これは人間と猫に限った事ではない。きっと、私は、人間と全く同じ尊い命たちを、そして、魂を大切にするという気持ちを、私にしか出来ない方法で、人類に伝えてゆく必要があるのだろう。そう、まさに、これこそが、私が、人間に生まれた一つ理由ではないだろうか?また、ぺいと出会った理由でもあり、神様とぺいから期待されている事のような気がする。では、私は、未来永劫、少しでも人類に伝えてゆくために何が出来るのか?それは、やはり、文字にして残す事が一番であるように思える。この世に永遠の命はない。だから、本にしておけば我々人類が存在し続ける限り、私の唯一無二の記憶を永遠に残すことが出来る。ぺいと命名された猫が、この世に生を受け、その後、人間から愛されて旅立っていったという記憶を残せる・・・。