「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

まだ数年は続くと思っていた、愛猫「ぺい」との平凡な日常。
しかし、その後の誤診と突然の癌宣告...。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見た記録です。

猫の神様

 ぺいが旅立ってから、まもなく一年が経とうとしている。ただ、それでも相変わらず夜になると、ぺいの事が忘れられずに、毎日、生前に撮ったぺいの動画を見ている。そして、週に二日か三日は、思いっきり大粒の涙を流している。そういえば、涙が出るのは、ストレスによって作られた体内の有害物質を外に排出する為だそうだ。でも、こんなにも泣いていたら、もしかすると、私自身も悲しみのあまり癌になってしまうかもしれない。そんな事を何度も感じてしまうほど泣いてきた。ただ、愛するぺいを失った事が悲しくて、もし、私も命を落とす事になってしまっても、それはそれで仕方のないこと。何も後悔なんてしない。本気でそう思ってきた。「ぺい、お前は、世界一、どの猫よりも死んだ事を人間から悲しまれていると思うよ」あの世にいるぺいを思い浮かべて、そう、何度も伝えてきた。

 

 そういえば、今日は泣きながら、ある光景を頭に想像していた。それは、あの世でのぺいの様子だ。ちなみに、あの世からは、神様はもちろん、他の猫たちも、この世の様子が良く見えるようだ。そして、今、あの世では、猫の神様が他の猫たちよりも少し高い場所にいて、この世での猫の行いを評価している。もちろん、あの世の他の先輩猫たちも評価を傍聴したくて猫の神様を取り囲むように沢山集まっている。そして、そんな先輩猫たちも、あの世に久しぶりに戻ってきたばかりのぺいに向けて発せられようとしている猫の神様の言葉に聞き耳を立てている。ぺいは、神様より、少しだけ離れたところに、ちょこんと座っていて、神様から発せられようとしている言葉を聞こうと、礼儀正しく、神様の方を向いている。私が、お邪魔したのは、ちょうど、まさに猫の神様がぺいに言葉を発しようとする少し前だった。暫くすると神様が喋りはじめた。「お前は、あんなに人間に悲しんでもらえているのか」「それほどまでに人間から愛されていたのか」「本当に凄く大切に思われていたんだな」「お前は、本当に凄いな!」神様はとても驚いた様子で何度も同じような事を口にしている。もちろん、先輩猫たちも、「そんなに人間に思われていたなんて」と、神様と同じように驚きつつも、「そんなに人間に悲しまれるなんて」と、心底羨ましがっている。ぺいは、神様曰く、凄く頑張り屋さんだったようだ。だから、この世で、癌になって凄く苦しくても、耐えに耐え抜いて、余命宣告された日まで必死に頑張った。普通の猫だったら、普通の精神力だったら、とても余命宣告された日までなんて絶対に耐えられなかった。それで、他の誰も真似出来ないほど、色々なことを長い間、頑張ってきたからこそ、一緒に生活を共にしてきた人間から、前例のないレベルで、この上なく悲しまれているのだという事が明らかにされた。猫と人間との長い歴史をどれだけ振り返っても、これほど人間に悲しまれるというのは、神様も全く記憶にないそうだ。そして、暫くすると神様がまた口を開いた。「お前は、使命を本当に立派に果たしたな」そう言って、ぺいの事を褒めている。使命?そう、猫が、人間に飼われるようになったのは、実は、偶然なんかではない。人間という生き物は、この世に神様によって創造されて間もない頃から、自分たち人間のことだけでなく、他の全ての生き物に対しても、色々と配慮出来る資質があるのだと、実は、神様から期待されているようだ。それで、それ以降、そんな神様が抱いた理想郷に一歩一歩ずつでも近づける為に、人間の神様と猫の神様が、天界で手を取り合って、猫の神様は、猫という生き物を創造して、人間界に送り込んでいるようなのだ。そして、ぺいの魂は、あの世で、十数年前、そんな神様に選ばれて、この世に生を受けた。それから数ヵ月後、ぺいは、ペットショップのゲージの中にいた。ぺいはゲージの外から眺める私を見て、この人なら、神様から授かった使命を果たせると思ったようで、猛烈に自分の存在をアピールしたみたいだ。そして、その後は、私と一緒に十数年、同じ時間や出来事を沢山共有してきた。そんなぺいは、今、あの世で猫の神様から凄く賞賛されている。これで、ぺいは、あの世でも今まで以上に心地良く、新生活をスタート出来そうだ。幸せそうなぺい。私も本当に嬉しい。いや、ぺい自身よりも、私の方が嬉しい。なぜなら、ぺいの事なら何でも負けない自信がある。「良かったな、ぺい」とにかく、これで少しは安心だ。本当に良かった。

 

 それにしても、ぺいの事は、もちろん一緒に暮らしていた時にも、良く考えてはいたけど、むしろ、この世からいなくなってからの方が考えている。四六時中とまではいかなくても、ほぼ、そんな感じだ。姿が目に見えるのか、見えないのか違いはあっても、ぺいの事を頭で思っている時間で言えば、ぺいの存在は、あの世に行ってからの方が大きくなっている。最近、そんな事を思うようになった。そして、もし、頭の中で思っている時間こそが存在だと考えるなら、私が、この世で生きている限り、ぺいは、私の心の中で生き続けているということになる。それは、この世、あの世という存在する場所に違いはあっても、意識の中の世界では、ある意味、何も変わっていないという事になる。こうして、色々と存在という概念について考えてゆくと、ぺいがいなくなって、結局、変化したものは、この世に身体が存在しているのか、存在していないのか、その違いだけのように思えてくる。でも、身体そのものの作りは、どの猫だって同じだ。そうすると、その猫の身体そのもの自体には、特別な感情は生まれないはずだ。そう考えると、結局、この世に身体が存在しているかなんてことも、悲しみとは、直接関係ないという事になってくる。そうすると、一体、この悲しみの正体とは何なのか?それは、その正体とは、感情なのだと思う。感情という心の動きに全く同じものは存在しない。そして、その心の動きという感情こそが唯一無二の価値であって個性。だからこそ、それを失ったら代替するものが存在しないからこそ、悲しいという感情が生まれるのだろう。

 

しかし、諸行無常、全ては常に変化する。それを、逆説的に表現するなら、変化するという事が変化しない唯一の事とも言える。変化する事に逆らえないという事は、それは、新陳代謝のようなもので、宇宙レベルの視点で考えると、その方が良いという事になるのだろう。もっと言うならば、そうでなければならない、という事なのかもしれない。だから死とは、そうした過程の一部を、全うしたのだと捉えるようにすれば、少しは悲しみも癒えるような気がする。

 

それと、もう一つ。感情という心の動きを魂と表現するなら、死んだあと、魂の入れ物である身体がなくなったとしても、魂は、どこかに存在するのだろうか?身体以外の場所に、魂が存在しているような場所があるのだろうか?そんな事は分からない。でも、分からないということは、可能性はあるということだ。でも、もし、そんな領域が本当に存在するのなら、そこでは、ぺいには、今まで以上に幸せに満ち足りた状態で過ごしていてほしいなと思う。そして、あの世からの一方通行でも全然構わないから、今も、私が、こんなに悲しんでいるという事と、ぺいの幸せを心から願っているという事が、ほんの少しでも良いから伝わってくれていると、本当に嬉しい。