「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

まだ数年は続くと思っていた、愛猫「ぺい」との平凡な日常。
しかし、その後の誤診と突然の癌宣告...。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見た記録です。

雨降り地区

心の中でぺいのことを思ってさえいれば、今も変らず生きている。最近は、自分にそう言い聞かせながら過ごしている。しかし、心に空いた隙間は完全には埋まらない。一緒に暮らしていた時には、ペットフードを与えれば、もっと美味しいものをよこせと催促してきたり、外出しようとすると、それを阻止しようとズボンの裾を噛もうとしてきたり、はたまた、やさしく撫でてやっていて気持ち良さそうにしているかと思っていると、急に豹変して手を噛んでくるということもあった。そこには、もちろん我侭だって含まれていたのだと思う。でも、そんなぺいが好きだった。生きていれば、色々な感情が生まれる。でも、そんな感情の一つ一つを受け止めながら一緒に暮らせた事が、今思えば、本当に嬉しかった。ただ、今となっては、何一つ自己主張なんてしてこない。まだまだこれからも、本当は、昔みたいに沢山の我侭で困らせてほしい。そもそも、魂とは何なのか?やはり、ああしたい、こうしたい、そんな感情があるからこそ本当の魂といえるのだと思う。

 

 そういえば、ぺいが旅立って暫くした頃、虹の橋という話と、もう一つ知った話がある。それは、ペットが旅立った後も、ずっと、悲しみを引きずっていると、愛するペットは、虹の橋の入口にある雨降り地区と呼ばれる場所から出られなくて、寒さに耐えながら悲しみに打ちひしがれてしまうという話だ。確かに、ずっと、悲しみを引きずっていると、自分自身の身体にはマイナスでしかないように思う。それと、旅立ったペットにしてみても、飼い主が自分のせいで体調を崩せば悲しいはずだ。そもそもだけど、永遠の命なんてありえないし、悲しいと思う気持ちの根本は、何よりも一緒に過ごしてきた時間が楽しかったからこそだ。だから、自分自身の為にも、愛するペットの為にも、少しでも早く立ち直るべきなんだと思う。だから、このような雨降り地区という考え方というもの自体には凄く共感出来るし理解も出来る。でも、やっぱり、悲しいものは悲しい。いくら頭では分かっていても気持ちは、そう簡単には変えられない。

 

それにしても、まもなく一年が経とうというのに、夜、ぺいの動画を見ていると、また、大粒の涙が出てきた。「ごめんな、ぺい」「本当に本当にごめんな」「なかなか虹の橋に行けないかもしれないけど、ごめんな」「ぺいの事が、本当に本当に大好きだったんだよ」「だから許してくれよ」また、パソコンの前で顔を伏せながら思いっきり泣いた。雨降り地区といっても、ぺいがいる場所は、いつも大雨ばかりだ。そして、だから今日も雨降り地区から出て行けなかった。「ごめんな、ぺい」「本当に悲しくて悲しくて仕方ないんだよ」「本当に、ごめんな・・・」泣きながら、虹の橋にいるぺいの様子を頭に思い浮かべてみる。ぺいは、「全然、無理しなくて良いよ」「ゆっくり時間を掛けて」と、雨を嫌がらないで、逆に雨を快く受け入れてくれている。私の勝手な想像に過ぎないけど、そんな気がした。「ありがとう、ぺい」「本当に本当にありがとう」「ぺい、ありがとうな」