「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

まだ数年は続くと思っていた、愛猫「ぺい」との平凡な日常。
しかし、その後の誤診と突然の癌宣告...。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見た記録です。

変らないもの

間もなく、ぺいが旅立った日から二年半になろうとしている。そして、もし、今も生きてくれていたなら、今日は、十四歳の誕生日という事になる。きっと、どんなスペシャルメニューでお祝いしようか、一週間ほど前から色々と考えていたはずだ。そして、そんな食事を目を丸くしながらガツガツと喜んで食べてくれる様子が、自分の事以上に嬉しくて、「長生きしろよ」なんてことを思っていたに違いない。ちなみに、今、この文章を書いているのは、偶然にも、ぺいの月命日である二〇一七年一月二十三日である。このところ、なかなか筆が進まなくて、いつもの神社で、「良い文章が書けるように頑張るので、どうか力をお貸し下さい」と、手を合わせてきたばかりだ。そうしたら、不思議なもので急に筆が勢い良く進み始めた。それはそれで、良かったのだけど、同時に涙が凄く溢れてきた。そう、もうあれから随分年月が経った。それなのに、時折、未だに悲しみが胸の奥から込み上げてくる。

 

昨日は、月命日という日を迎えるにあたって、仏壇や仏具などを全部綺麗に拭いた。月命日という日に綺麗に拭くというのは、ぺいは、いつも綺麗好きだったからということもある。それと、鳥肉を茹でたものをほぐして仏壇に供えた。なぜ、肉をほぐすのかというと、口の癌のせいで食べ物を食べにくかったからだ。そう、今も、ぺいは、私の心の中で変わらず生きている。もちろん、昔と比べれば姿は変わったし「ニャー」という声も聞こえてはこない。だけど、私の心の中では確実に生きている。だから、仏壇を綺麗に拭けば喜んでくれるような気がするし、生前、目の色を変えて食べてくれていたものを供えれば、凄く喜んで食べてくれるように思えるのだ。

 

そういえば、最近、あらためて生と死について思ったことがある。それは、生きていても心の中に全く思っていなければ、死んでいるのと同じことだと思うし、逆に、死んでいても心の中に生きていれば、それは、生きているのと同じではないかという事だ。だから、肉体的な存在がなくなったからといってイコール死とはならないような気がしている。そうした理由もあって、仏壇の生花は、特に一周忌までは、とにかく一日たりとも絶やさないようにしてきた。それは、短い命を謳歌している元気な花に取り替え続けることで、ぺいの魂に生花の生のエネルギーのようなものを送れるような気がしたからだ。それと、ぺいのことを心の中に変わらず思っていたいという気持ちから、いつも持ち歩いているスマートフォンには、毎月、月命日の十三時半にアラームが鳴るようにセットしてある。もちろん、仕事中でなければ黙祷しながら手を合わせているし、仕事中であれば心の中で手を合わせるようにしている。それは、月命日の旅立った時刻には、ぺいの事を必ず頭の中に思っていたいからだ。でも、そんな時、どうしても思い出してしまうのは、やっぱり、あの絶命した時の最期の瞬間だ。今でも毎日続けている事は、花の事以外にもある。まず、一つ目は、お供えの水の交換だ。水は、生前の時と同じように朝晩の二回、必ず新鮮なものに取り替えている。もちろん、水を注ぐ容器は毎回綺麗に洗う。それと、長い間、水が飲めずに辛かったと思うので、天国では新鮮で美味しい水を好きなだけ飲んでほしいので、いつも水は溢れんばかりに注いでいる。そして、「ぺいちゃん、水、いっばい飲めな~」という言葉を添えている。水の取り替えは、旅行で家を空けた数日間だけは取り替えられなかったけど、それ以外の日は、一日たりとも欠かさず続けている。もちろん、新鮮な水に取り替えれば喜んでくれているように思えるから、一度たりとも面倒に思ったこともないし、むしろ新鮮な水に取り替えることは喜びになっている。そして、夜には、水の取り替えと同時に、ろうそくと線香にも火を着けて手を合わせている。それと、もう一つ続けていること、それは、仕事で外出する時には、ぺいの頭を擦るイメージで骨壺の覆いを擦って、「ぺいちゃん、仕事頑張ってくるからな~」と伝えて、仕事から戻った時には、「ぺいちゃん、帰ったよ~」と、声を掛けている。それで、もし、一日を順調に気分良く終えられた日であれば、「ぺいちゃん、ありがとうな」「ぺいちゃんのおかげだよ」といった事も伝えて、逆に、辛いことがあった場合には、「ぺいちゃん、どうしたら良い?」「ぺいちゃん、助けてくれよ~」といった事を、ついつい話し掛けている。もちろん、骨壺の中のぺいは何かアドバイスをくれたりはしないけど、でも、それは、生前と何も変わらない。もちろん、姿は変わっているし、「ニャー」という鳴き声も聞こえてこないけど、心の中に生きているぺいは、何一つ変わっていない。逆に、心の中では、存在が大きくなっている事すらある。だから、もし、日常生活で良い事があれば、ぺいが見守ってくれていたからだと思えるし、逆に、悪いことであれば、励ましてくれたり慰めてくれている。結局、生きているかどうかは、姿形が存在しているかという単純な事ではなくて、心が何を感じるか、感じられるかの方が、遥かに大切なんだと思う。なぜなら、心や感情こそが、生きている証に他ならないからだ。ぺいは、もう骨になってしまった。すっかり、生前の姿とは変わった。でも、今も変わらず励ましてくれたり慰めてくれている。それが、今も変わらない事実なのだ。本当にありがたい。ぺいという存在に本当に出会えて良かった。一緒に暮らせて本当に良かった。日々、そんな感謝を心に抱きながら手を合わせている。