「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との戦い~

2014年3月 愛猫「ぺい」に、突然、癌が宣告されました。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見て頑張った記録です。
ありのままの事実を、感じた事を全て残しておくことにしました。

寿命が不平等である理由

しかし、なぜ、よりによって、ぺいの寿命が平均寿命よりも短くなければならなかったのか?その理由について考えていた。ただ、世の中にはもっと寿命の短い猫も存在している。だから、平均寿命と比べれば、悲しいものであっても、より短命の猫と比べると、それは、逆に喜ぶべき事になってしまう。そもそも、寿命の長短で悲しむこと自体、本当に正しいことなんだろうか?もし、誤った感覚に囚われて、悲しみが増幅しているのであれば、本来必要のない悲しみを背負っていることになる。もちろん、二度と感情そのものに接する機会が失われたということに対しての悲しみは仕方がない。でも、悲しみの中に何か損得勘定のようなものが少しでも含まれていたとしたら、それは、周囲の不幸が結果的であれ自分にとっての幸福になってしまうということを意味してしまう。そして、それは、平均寿命というものを意識した時点で生じてしまうし、このように物事を捉えてしまうと、結果的に、自分自身を余計に苦しめてしまうことにも繋がる。そこで、どのように寿命というものを捉えるのかについては、本当に真剣に考えておくべきだと思うようになった。そして、きちんと正しい捉え方なりの感覚を、自分自身のものに出来れば、もっと寿命というものの存在を素直に受け入れられるようになるように思ったのだ。では、一体、寿命の長短を、どのように捉えれば余計に悲しまなくても済むのか?でも、その答えに簡単に辿り着けるぐらいなら、最初から辛い思いなんてしていない。簡単に答えに辿り着けないから辛い思いをしているのだ。

 

そこで、せめて答えの糸口に少しでも早く近づくために、もし、寿命が最初から公平に決まっていたら、どうなんだろうかという事について考えてみた。そもそも世の中は不公平だ。だから、せめて寿命ぐらい公平でも良いのではと思ったりもした。それと、そもそも、最初から寿命を分かっていた方が毎日を大切に過ごせる気もした。ただ、その一方で、逆に、最初から寿命なんて分からない方が、毎日を大切に過ごせるような気がしなくもない。それでは、一体、どちらが良いのか?やはり、この答えを得るためには、漠然と考えるのではなくて、やはり、判断するための基準が必要なのだと思う。そして、その基準は、何だろうかと考えて直ぐに思いついたのは、どちらの方が、より多くのことを経験したり成し遂げたりすることが出来るか?という基準だ。ただ、そもそも、その判断の基準自体が本当に正しいのか?それが、正しい答えを得るための出発点に他ならないので、十二分に考え抜いておかなければならない。

 

そういえば、ぺいとの闘病生活で過去の心境を思い返してみると、ぺいが癌になってから旅立つまでの期間、ぺいと同じ空間で、同じ空気を吸って、同じ時間を過ごせるということが、本当に心の底から嬉しかった。それは、本来、辛くて悲しいことしか存在しないはずなのに、なぜか、逆に、とめどもなく幸福に思えるもので、まさに、幸福だけで満ち足りた天国のような世界で過ごしているような感覚だった。もちろん、これほどの幸福感は、過去の人生で一番と言っても決して過言ではなかった。そして、これ以上の幸福感を味わうことは、これから先、もう、生涯ないだろうとさえ思えた。でも、そんな幸福感は、物事の捉え方一つで生まれてくるように思えたし、日常においても、物事に対する捉え方を意識しながら過ごすことが、幸せを無限大に出来る唯一無二の方法に思えた。そして、もし、本当に神様が存在するなら、あえて寿命を、不公平で、いつ終わるか分からないものにしてくれていることで、逆に、我々が少しでも多くの幸せを感じられるように配慮してくれているのかもしれないのではと思えた。

 

それにしても、なぜ、不幸の渦中にあって、これほどの幸福感を味わえたのだろうか?その理由を考えてみると、それは、やはり、余命を具体的に宣告されたことによって、一日一日という時間の中で感じられることの全てが、自分自身の人生にとって本当に凄くかけがえのない大切なものに思えたからだと感じている。では、やはり、寿命は公平であれば、最初から分かっていた方が良いのだろうか?

 

私は、ぺいの余命宣告を聞いて以降、確実に癌に蝕まれてゆく様子を目の当たりにしながらも、奇跡が起きてほしい、世の中に絶対はないのだから、もしかしたら、何らかの奇跡で癌の進行が止まることもあり得る。そんな可能性を本当に最後の最後まで信じ続けた。でも、もし、最初から寿命が公平に決まっていたら、そこに可能性という希望なんて、全く生まれる余地がない。だから、もし選択肢があるなら、生まれた時から寿命が公平に決まっていて、寿命に対して全く希望を抱けない世界に生きるのと、寿命を知る由もなく、寿命がいつ終わるのか不安を抱きながらも自由に希望を抱けることの出来る世界に生きるのと、どちらが良いか?という選択になってくる。あなたは、どちらが良いだろうか?正直、悩ましい選択かもしれない。でも、後者の方が良いのではないだろうか?ちなみに、私は悩んだ末、後者という結論に行きついた。その一番の理由は、知らぬが仏という言葉もあるように、例え寿命が分からなくて、さらに寿命が不平等であっても、寿命という時間を過ごしてゆく上では、結果的であれ、後者の方が、心が安定した状態で日々過ごせるように思えたからだ。そして、この心の安定、そして、その追求こそ、人間の究極の目標であり、また、心の安定は、寿命が最初から公平に決まっていた方が良いか否かを判断するにあたって、最も相応しい基準ではないだろうか?だから、寿命の長短というもので、余計に悲しむことなく過ごす為に思うのは、いつ寿命が終わるのか分からないということ、分からないということは結果的に公平にはならないということ、でも、だからこそ、希望というものを抱きながら生きられるのだと思うのである。そして、希望を抱けるからこそ、日々、心に安定がもたらされているということ、そして、このような状態こそが一番望ましくて、最も望んだ形で寿命を全うしているという認識を持っておくべきこそが、寿命の長短で余計に悲しまないようにするためにも、より有意義に人生を全うしてゆくためにも、非常に大切に思うのである。そして、これらのことを逆説的に言うと、寿命を有意義に全うしてゆくためには、何があっても、最後の最後まで、命が尽きる本当に直前まで、希望を抱き続けるべきということ、そのことを一番大切にすべきということ、だから、寿命というものを決して粗末にしてはいけないということ、そういったことをぺいの最期を看取って思ったのです。それは、我々の身体を構成する細胞の一つ一つや、臓器は、少しでも長く生きていられるように、最後の最後まで、希望を抱いて決して希望を捨てないで一生懸命頑張ってくれているのですから・・・。