「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

まだ数年は続くと思っていた、愛猫「ぺい」との平凡な日常。
しかし、その後の誤診と突然の癌宣告...。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見た記録です。

引っ越し

ぺいが旅立ってから二か月。トイレの砂、食器、爪研ぎ・・・、ぺいが使っていたものは、そのままで、何一つ動かさないでいた。なぜなら、一つ一つ全ての物が、ぺいの一部のような気がして、ずっと、このままにしておこうと思ったからだ。もちろん、それらを目にすると。当然、寂しさを感じる事もあった。ただ、もしかしたら、ぺいの魂は、まだ、この部屋の中にいるかもしれない。もし、そうだったら、何か一つでも片付けてしまうと、ぺいを悲しませてしまう。そんな事を思って、そのままにしていたというのもあった。

 

ところで、ぺいと一緒に暮らしてきた部屋は、もう入居してから十四年。随分前から経年劣化が目立つようになっていた。それと、ここに引っ越してきた当時は、駅から近い割には静かで住みやすい環境だったというのに、今では、深夜の時間帯が一番騒がしいという状態。そこで、数年前、真剣に引っ越しを考えた。でも、残念ながら、犬とならまだしも猫と一緒に暮らせる賃貸物件というのは本当に少ない。もし存在したとしても、駅から遠い場所だったり、築年数が相当古かったりするので諦めていた。でも、もうぺいはいない。だから、直ぐに引っ越しする事も不可能ではない。だけど、一ヶ月程前から悩んでいた。それは他でもない。ぺいと長年暮らしてきた思い出の詰まった部屋から出てゆく事に迷いがあったからだ。でも、理由はもう一つあった。それは、もしかしたら、ぺいの魂が、まだこの世にいるかもしれない。そうしたら、この部屋に戻ってくるかもしれない。そして、もし、その時、他の人が住んでいたら困惑してしまう。そんな事も気になったからだ。そもそも、猫は、住み慣れた場所が、一番心地良いに決まっている。それなのに、引っ越しで遺骨を移動させてしまったら落ちつかないだろう。そんな事も考えた。そうして色々考えていると、今、別に無理に引っ越さなくても、また一年先ぐらいに考えれば良いかなとも思った。ただ、その一方で、部屋の契約更新まで、残り八か月という事もあった。それと、新年は、半ば強引にでも新しい場所で新たな気持ちで迎えた方が良い気もした。それで、本当に色々な事を考えた上で、最終的には、年内の引っ越しを決めた。

 

そして、そう決めた以上、早速、新しい物件探しと、部屋の中の整理を始めた。まずは、そのままにしていたものの一つで、一番片付けが大変なトイレからだ。猫砂も入ったままなので、まずは、猫砂をすくって袋に詰める事にした。すると、砂の中から、一・五センチぐらいのウンチが一つ出てきた。たまたま、回収しきれずに残っていたものだ。もう、随分、月日が経って乾燥して固くなっている。そういえば、ぺいが元気な時、ウンチは、元気のバロメーターだと思えて嬉しかった。でも、今となっては、ぺいの一部に思えて愛おしさすら感じてしまう。どうしよう?いつものように捨ててしまおうか?でも、もし、このまま捨ててしまうと二度と取り返しがつかない。結局、ウンチは、ラップに包んで、仏壇の引き出しの中に保管した。そして、また、別の場所には、ぺいが元気な頃、良く寝て過ごしていた寝床に抜け毛を見つけた。この寝床は、クローゼットの奥の高い場所で、日頃は、目にもつかなくて掃除なんてしていなかった場所だ。猫は本当に良く毛が抜ける。そんな抜け毛は、服にも纏わりつくので無用の長物だった。でも、そんな毛が、今は、貴重なぺいの一部に思えて、本当に愛おしい。そっと、見つけた抜け毛を集めるとボール状になった。触ってみる。この感触。もう二度と触れる事なんて出来ないと思っていた感触だった。昔、ぺいを撫でていた時に手に感じていたこの感触。本当に懐かしい。もう二度と感じられないと思っていた感触。ぺいが突然、この世に戻ってきてくれたような気がして凄く嬉しくなった。そうだ。この毛さえ保管しておけば、いつでも、大好きだったぺいに触れる事が出来る。いつでも、あの頃に戻る事が出来る。あれほど無用の長物だと思っていた抜け毛なのに、今は、その毛に触れられるという事が凄く嬉しい。でも、思えば、そもそも、こんなに嬉しく思えるって事自体、ぺいと出会えた事に感謝だ。一度きりの人生で、このように思える存在に出会えた事自体、凄く幸せなんだと思える。ぺいありがとう。ありがとうな。この抜け毛も絶対に大切に保管しておこう。そう強く心に決めた。そして、さらに抜け毛をかき集めた。この毛は、ぺいそのもので、ぺいの分身でもあるのだ。これは、唯一無二で一番の宝物になる。何か抜け毛を入れられる良い入れ物はないか探してみると、ちょうど良いサイズの小さい透明のケースを見つけた。これは、何の入れ物だっけな?全然思い出せない。でも、毛を入れるには、ちょうど良い。そして、その見つけたケースに毛を詰めて、そのケースも、仏壇の引き出しの中に納めた。

 

そうして、部屋の整理を始めて数日、大体の整理が終わった。それにしても、部屋の中には、思っていた以上に、ぺいに関するものが多かった。爪研ぎ板や、一緒に遊んだおもちゃ・・・。もう、全部不要といえば不要なものだけど、ぺいが使っていたものだと思うと、何一つとして捨てる気になんてなれなかった。そこで、どんなに細かいものでも、引っ越し用の大きな箱に詰めて、引っ越し先に全て持って行く事にした。ただ、トイレは大きくて同じ箱には入りきらなかったので、トイレは、さらに別の箱に入れて一緒に持って行く事にした。

 f:id:pei0823:20160730173200j:plain f:id:pei0823:20160730174318j:plain 

楽しい思い出の意味

月命日の翌日、いつものように仏壇に供えてある水を取り替えた。そう、仏具が届いてから、朝晩、生前と同じように毎日欠かさず新鮮な水に取り替えている。それにしても、今日は仕事だというのに、まだ、前日の余韻が残っている。それも思いっきり。ただ、気持ちを切り替えていかなければならない。しかし、そうは言ってみても、ぺいだって、私が、悲しんでいる事自体は、どちらかと言えば喜んでくれているように感じられる。でもそれが、仕事にまで影響してしまうと絶対に悲しむはずだ。まさか、ぺいを悲しませる事なんて出来ない。そんな事を思っていたら会社に着いた。とにかく、気持ちを切り替えていかないと・・・。一心不乱、仕事以外の事は、一切考えないように、いつものように、いや、いつも以上に仕事に集中するようにした。そして、時間は過ぎ、退社時刻になった。やっと家に帰れる。これで、やっと、ぺいと一緒に過ごせる。また、明日の朝まで、ぺいの事で頭を一杯に出来る。帰りの電車の中、そう思うと嬉しくて仕方がなかった。

 

 そして、自宅に到着。「ぺいちゃん、帰ったよー」玄関を開けて、昔と同じように帰ってきた事を声に出して伝えてみた。もちろん、もう、返事はないし、お出迎えがある訳でもないけど、仏壇の中で尻尾を振ってくれているように思えた。そして、いつものように、水を取り替えて、ロウソクと線香に火を点けて、おりんを鳴らして手を合わせた。ちなみに、おりんは、いつも三回鳴らすようにしている。それは、火葬の最後のお別れの時に鳴らした回数が三回だったからだ。あの時から、ぺいの事を思う気持ちは何一つ変わっていない。その事を、ぺいに伝えたくて、また、伝わると良いなと思いながら、それで、いつも三回、鳴らしている。そして、焼香を済ませると、いつもの生活パターンで再び外出。そして、再び、夜、九時過ぎに帰宅。今日は、もう外出の予定はない。これで、落ち着いて過ごせる。そう思いながら部屋に入った。もちろん、直ぐに、仏壇にいるぺいの事が気になる。骨壺の覆いに書いたぺいという文字。今となっては、骨というものにつけた名前になる。ぺいという名前は、もう、骨の事、骨の名前なのか・・・。つい、そんな事を思った。そして、そう思ったら、胸の中に抑え込んでいたものが、また、止めどもなく溢れてきた。それは、日中、ずっと、胸の中に押し込んでいたものだった。ぺいの事を抱きしめたい。抱きしめてやりたい。そう思ったら、いても立ってもいられなくて、仏壇の中の骨壺を取り出して、ぺいが旅立った場所に骨壺を置いてみた。ぺい、お前は、ここで苦しんで旅立ったんだよな。そう思ったら、さらに悲しくて悲しくて涙が溢れてきた。「ぺい、ごめんな」「ごめん、ぺい、なんで死んじゃうんだよ」「ぺい、行くなよ」「なぁ、ぺい?」「どうしてこんな姿になっちゃたんだよ」「助けてあげれなくてごめんな」骨壺を身体全体で包み込むように抱きしめたり、骨壺に顔を押し当ててみたり、骨壺を擦ったり、とにかく骨壺の中のぺいに色々な事を話しかけた。もちろん、私が抱きしめたのは、ぺいの骨なんかじゃない。ぺいの魂だ。

 

 もう、あの旅立った日から一か月が過ぎたというのに、全く悲しみは色褪せない。ぺいは、私にとって、唯一無二の存在だった。もし、これから先、どれだけ宇宙の歴史が続いたとしても、どれだけ強く願っても、ぺいと同じ猫には、絶対に二度と出会えない。過去にも未来にも果てしなく続く宇宙の時間。そんな時間の中で、同じ時代に出会い、同じ場所で過ごしてきた。でも、もう、いくら願っても二度と同じ出会いはない。それが現実。そして、そんな現実が容赦なく波のように何度も心に打ちつける。でも、ここまで思うという事、ここまで思えるという事は、ぺいという存在が、どれほど大切な存在だったのかという事でもある。そして、そんな事を、何度も思い知らされる。そして、そんな事を思うと、さらに悲しみが込み上げてくる。もう一度、もう一度だけでいい、最後に、もう一度だけ抱きしめてやりたい。もう一度だけでいい、もう一度だけでいいから、とびっきり、やさしい声を掛けてあげながら、ゆっくり頭をなでなでしてやりたい。最後の最後に、もう一度、もう一度だけでいいから・・・。

 

 でも、それは、どんなに望んでも叶わない。どうして?どうしてなんだよ。折角、念願だった廊下に出してやったというのに。折角、忘れられない思い出を作ってあげたというのに。そんな思い出を刻んだ脳は、思い出の詰まった脳は、もう全部焼けてしまった。脳も、思い出も、全部燃えて綺麗さっぱり何もかもなくなってしまったのだ。この世に生まれ、私という人間に出会い、ずっと、一緒に暮らしてきた。その中で感じてきた沢山の事。興奮した事、楽しかった事、嬉しかった事、本当に大切な沢山の思い出。それなのに、そんなものは、全部綺麗さっぱりなくなってしまった。灰になってしまった。どうして?どうせ最後には、全部なくなってしまう。それだったら、どうして生きている間に、楽しい思い出を少しでも沢山作ろうとするのか?どうせ、死んだら全部なくなってしまうくせに。だったら、楽しい思い出を作る事に、作った事に、どんな意味があるんだよ?自問自答しても分らない。それで、「ぺい、死にとうなかったなぁ」「折角、いい思い出作ってやったのに、死んだら元もこうもないじゃないか?」「なんで死んじゃうんだよ」そんな事を骨壺の中のぺいに何度も尋ねてみる。もちろん、ぺいは何も答えてくれない。骨壺を移動させてから三十分ほど経っただろうか?我に返って目を開けてみると、骨壺の周囲には、涙の粒が無数に見えた。

f:id:pei0823:20160717160739j:plain

月命日

あれから一か月が経った。大切な月命日は、秋分の日で祝日という巡り合せ。これも偶然なのか?とにかく、仕事は休日で休みだから、一日中、ぺいの事だけを考えて過ごせるという事が凄く嬉しかった。まずは、朝、花屋さんが開店する時間を待った。そして、十時を回ったので、早速、出掛けた。今日は、特別な日。そうだ。ぺいに美味しいものを食べさせてやりたい。出掛け際、そう思った。ぺいは、どんな物を買って帰ると一番喜んでくれるかな?自転車を走らせながら考えた。やっぱり、一番のご馳走は刺身だよな。そう思うと、ぺいが刺身を喜んで目の色を変えながら食べてくれる姿が頭に浮かんだ。そこで、花屋の前に鮮魚店に立ち寄った。目的の刺身を手にして、会計でレジに並んだ時、ぺいが喜んでくれる、そう思うと凄く嬉しくなった。それで鮮魚店で刺身を買って、今度は、本来の目的であった花屋に向けて自転車を走らせた。月命日という日は、大好きだったぺいの特別な日なので、花屋では、その事をイメージしながら生花を選んだ。自宅に戻って花を花瓶に挿していると母が到着した。今日は、昼頃に来るという連絡をもらっていたから予定通りの到着だ。今日も母は何か持ってきてくれたようで、いつもの軽く湯通しした肉と、なぜか、おはぎ。ちなみに、おはぎは、お供え物で、今日、ぺいの事を偲んだ後に、私と一緒に食べようと思って買ってきたそうだ。私は、早速、偲ぶためのセッティングを始める事にした。まずは、ぺいが旅立った場所に骨壺を移動した。そして、その横にぺいが写っている写真立て、それらの後ろに生花を挿した花瓶、骨壺の前には、仏具と母が持ってきてくれた肉とおはぎ、それと、初七日に買っていたカニカマと、今日買ってきた刺身を置いた。これで、全ての準備が完了だ。

 

ぺいが危篤になった時間は、十三時。旅立った時間は、十三時半だった。だから、十三時と同時にロウソクと線香に火を点けて、母と一緒に目を閉じて手を合わせた。これから十三時半までの三十分という時間は、ちょうど今から一か月前、ぺいが、もがき苦しんでいた時間になる。あの時の記憶が鮮明に蘇ってくる。私は、それから三十分、殆ど無口で、ロウソクや線香が次第に短くなってゆくのを時折見つめながら過ごした。もちろん、母も口数が少なかった。そして、一本目のロウソクが燃えてなくなったので、時計を見て見ると、まだ、ぺいが旅立った時刻になっていない。私は、ロウソクの二本目に火を点けた。そして、二本目のロウソクが燃え尽きた時、もう一度、時計を見てみると、十三時半を秒針が少し過ぎたところだった。それは、あの紛れもなくぺいが旅立った時刻と一緒であった。あまりにもピッタリだ。また、我々に味方しいくれる何か神様の見えない力のようなものが働いているような気がした。私は、直ぐに新しいロウソクを用意して、また急いで火を点けた。今度は、三本目のロウソクという事になる。でも、もう既にぺいが旅立った時間を過ぎた。そもそも、ロウソクは、ぺいが旅立った時刻までの予定だった。だから、本当は、三本目のロウソクに火を点ける必要なんてない。だけど、ロウソクの火が偶然にしても、ぺいが旅立った時刻と同時刻に消えた事が、どうしても気になった。それは、ぺいの命の燈火と、ロウソクの燈火がダブっているように感じたからだ。そして、その偶然を、どうしても素直に受け止める事が出来なかった。せめて、ロウソクの燈火ぐらいは、現実と違っていてほしい。だから、私は、衝動的に三本目のロウソクに火を点けたのだ。ロウソクに火を点けたところで、ぺいは生き返らない。勝手にぺいの死とロウソクの燈火をオーバーラップさせた悪あがきではないか?火を点ける時、そんな事も思った。でも、思わず火を点けた。それだけ、ぺいの死が受け入れられなかったのだと思う。ただ、もし、このまま、現実を直視しないでいたら、ぺいは、死んだというのに、これから先も、死んだという事を認められずに過ごす事になってしまう。もし、そうしたら、きっと、ぺいは、死んだというのに死にきれずに浮かばれないのではないだろうか?私は、ぺいの事が大好きだ。だから、とにかく、ぺいが一番幸せになれるようにしたい。それが、何よりも優先すべき事。そして、それこそが、私の一番の幸せである。そう思うと、衝動的に火を点けてしまった理由を何か別の理由にしなければならない。そうだ、これは(三本目のロウソクは)、ぺいが天国という場所で新たなスタートを切るという意味の燈火にしよう。天国では、また幸せに元気で暮らせよ。私は、明るく燃える炎を見ながら、あらためて手を合わせた。そして、三本目のロウソクも消えた。これで、月命日という特別な日は、ぺいの事を偲んで、天国での幸せも願う事が出来た。きっと、ぺいも喜んでくれたはずだ。ぺいが尻尾を左右に振ってくれている。そんな姿が頭に思い浮かんだ。良かった。本当に良かった。嬉しいよ!ぺい。

f:id:pei0823:20160626123238j:plain

 

初七日

あれから一か月が経った。大切な月命日は、秋分の日で祝日という巡り合せ。これも偶然なのだろうか?とにかく、仕事は休日で休みだから、一日中、ぺいの事だけを考えて過ごせるという事が凄く嬉しかった。まずは、朝、花屋さんが開店する時間を待った。そして、十時を回ったので、早速、出掛けた。今日は、特別な日。そうだ。ぺいに美味しいものを食べさせてやりたい。出掛け際、そう思った。ぺいは、どんな物を買って帰ると一番喜んでくれるかな?自転車を走らせながら考えた。やっぱり、一番のご馳走は刺身だよな。そう思うと、ぺいが刺身を喜んで目の色を変えながら食べてくれる様子が頭に浮かぶ。そこで、花屋の前に鮮魚店に立ち寄ることにした。目的の刺身を手にして、会計でレジに並んだ時、ぺいが喜んでくれる、そう思うと凄く嬉しかった。それで、今度は、本来の目的であった花屋に向けて自転車を走らせた。月命日という日は、大好きだったぺいの特別な日なので、花屋では、その事をイメージしながら生花を選んだ。自宅に戻って花を花瓶に挿していると母が到着した。今日は、昼頃に来るという連絡をもらっていたから予定通りだ。今日も母は何か持ってきてくれたようで、いつもの軽く湯通しした肉と、なぜか、おはぎ。ちなみに、おはぎは、お供え物で、今日、ぺいの事を偲んだ後に、私と一緒に食べようと思って買ってきたそうだ。私は、早速、偲ぶためのセッティングを始める事にした。まずは、ぺいが旅立った場所に骨壺を移動した。そして、その横にぺいが写っている写真立て、それらの後ろに生花を挿した花瓶、骨壺の前には、仏具と母が持ってきてくれた肉とおはぎ、それと、初七日に買っていたカニカマと、今日買ってきた刺身を置いた。これで、全て準備完了だ。

 

ぺいが危篤になった時刻は、十三時。旅立った時間は、十三時半だった。だから、十三時と同時にロウソクと線香に火を点けて、母と一緒に目を閉じて手を合わせた。これから十三時半までの三十分という時間は、ちょうど今から一か月前、ぺいが、もがき苦しんでいた時間になる。あの時の記憶が鮮明に蘇ってくる。私は、それから三十分、殆ど無口で、ロウソクや線香が次第に短くなってゆくのを時折見つめながら過ごした。もちろん、母も口数が少ない。そして、一本目のロウソクが燃えてなくなったので、時計を見て見る。まだ、ぺいが旅立った時刻になっていない。私は、ロウソクの二本目に火を点けた。そして、二本目のロウソクが燃え尽きた時、もう一度、時計を見てみる。すると、十三時半を秒針が少し過ぎたところだった。それは、あの紛れもなくぺいが旅立った時刻と一緒だった。あまりにもピッタリだ。また、我々に味方してくれる何か神様の見えない力のようなものが働いているような気がした。私は、直ぐに新しいロウソクを用意して、また急いで火を点けた。今度は、三本目のロウソクという事になる。でも、もう既にぺいが旅立った時間を過ぎている。そもそも、ロウソクは、ぺいが旅立った時刻までの予定だった。だから、本当は、三本目のロウソクに火を点ける必要なんてなかった。だけど、ロウソクの火が偶然だとしても、ぺいが旅立った時刻と同時刻に消えた事が、どうしても気になった。それは、ぺいの命の燈火と、ロウソクの燈火がダブっているように感じられたからだ。そして、その偶然を、どうしても素直に受け入れる事が出来なかった。せめて、ロウソクの燈火ぐらいは、現実とは違っていてほしい。だから、私は、衝動的に三本目のロウソクに火を点けていたのだ。ロウソクに火を点けたところで、ぺいは生き返らない。勝手にぺいの死とロウソクの燈火をオーバーラップさせた悪あがき。それだけ、ぺいの死を受け入れられなかったのかもしれない。ただ、もし、このまま、現実を直視しないでいたら、ぺいは、死んだというのに、これから先も、死んだという事を認められずに過ごす事になってしまう。もし、そうしたら、きっと、ぺいは、死んだというのに死にきれずに浮かばれないのではないだろうか?私は、ぺいの事が大好きだ。だから、とにかく、ぺいが一番幸せになれるようにしたい。それが、何よりも優先すべき事。そして、それこそが、私の一番の幸せ。そんな事を思うと、衝動的に火を点けてしまった理由を何か別の理由にしなければならないと思った。そうだ、これは(三本目のロウソクは)、ぺいが天国という場所で新たなスタートを切るという意味の燈火にしよう。天国では、また幸せに元気で暮らせよ。私は、再び明るく燃える炎を見ながら、あらためて手を合わせた。そうして、三本目のロウソクも消えた。これで、月命日という特別な日は、ぺいの事を偲んで、天国での幸せも願う事が出来た。きっと、ぺいも喜んでくれたはずだ。ぺいが尻尾を左右に振ってくれている。そんな様子が頭に思い浮かんだ。良かった。本当に良かった。嬉しいよ!ぺい。 

f:id:pei0823:20160612154421j:plain

f:id:pei0823:20160612155238j:plain f:id:pei0823:20160612155244j:plain

 

十一年と百十八日

今日は、ぺいが旅立って二日目。とてつもなく悲しい。悲しくて悲しくて仕方がない。ぺいが生まれたのは、二〇〇三年の二月十日。どれだけ日数を生きていたのだろうか?少し気になったので、インターネットで日数計算というキーワードで検索してみると、計算の出来るサイトがあった。入力してみると、十一年と百九十四日だそうだ。それと、我が家に来てからだと、十一年と百十八日だった。十一年と百十八日。私が、今まで歩んできた人生の時間軸で考えても結構な割合であった事になる。ましてや、そもそも、人生は一度しかない。そんな一度しかない人生で、これほどまでの気持ちになる事なんて早々ない。そう思うと、なおさら、ぺいと一緒に過ごしてきた十一年という歳月が、どれほど大切であったのかと再認識させられる。それにしても悲しい。どうして、こんなにも悲しいのか?やはり、一緒に過ごしてきた時間が幸せだったのだろう。では、幸せってなんだろう?それは、どれだけ多くの喜怒哀楽を共有してきたかという事のように思える。そうして、ゆっくりだけど時間の経過と共に少しずつ頭の中が整理出来てきた。ぺい、ありがとうな。一緒に過ごしてきた時間や記憶は、今まで生きてきた人生の中で一番大切にしたい思い出になったよ。そう思えてきたのだ。それにしても、今日の日中は、頭の整理が出来ないまま仕事をしていた。身体は職場でも頭の中は混乱して心は異空間を彷徨っているようだった。ただ、そうした中で、心に決めた事があった。それは、あらためて神社にお参りするという事だ。なぜなら、ほんの少しの間であったけど、神様に対して不満を抱いていた事を正直に詫びて、逆に感謝したいと心の底から思えたからだ。神様への感謝。不思議なもので、考え方を変えてみると全ての出来事が感謝すべき事のように思えてくる。例えば、先生から宣告されていた余命の期間もそうだ。余命の期間には、一か月から三か月という幅があった。でも、ぺいは、その最も長い期間を一日も余す事なく生きて、その翌日に旅立った。それと、最期に立ち会う事も出来た。さらに、最期は、休日一日目の土曜というタイミングだったし、翌日に粛々と火葬を終える事も出来た。そして、その火葬を終えた時の時刻は、ぺいが旅立った前日の時刻と同じだった。パッと思いつく事だけを並べてみても都合の良い偶然が多すぎる。これらの事には、何か目に見えない力が働いているような気がしてならない。もしかして、神様の力のようなものが働いているのか?もし、そうだとすれば、神様には感謝すべき事だらけということになる。それと、もう一つ思うのは、そもそも、ぺいと出会った事、ぺいが癌になって旅立っていった事には、最初から何か目的があったのではないだろうか?もしかすると、ぺいは、この世に何らかの使命があって生まれて、その使命を終えられるという事で、神様のところに戻っただけではないだろうか?もし、そうだとすれば、ぺいとの出会いは、神様からの贈り物だったという事になる。不思議なもので、なぜか時間の経過とともに、そう思えてきた。

 

それと、もう一つ、昨夜から考えている事がある。それは、神様に、お願いしてきた事についてだ。私は、癌が良くなって、三~四年ほど寿命が延びてほしい、せめて平均寿命ぐらいまでは生かせてほしいとお願いしてきた。でも、普通に考えると、今の医学では、どうしょうもない事を神様にお願いしてきたとも言える。ただ、逆に言うと、今の医学ではどうしょうもない事だからこそ神様にお願いしてきたとも言える。でも言えるのは、いずれにせよ好き勝手な事を一方的にお願いしてきたという事だ。しかし、それであるにも拘わらず、私は、それが叶わなかった、叶えられなかったという事で、神様を責めたり神様に不満を抱いていたのだ。正直、自分の考え方を冷静に見つめ直してみると、あまりにも身勝手であったのでは?と思えてくる。これらは、極端な例で考えてみると分かり易い。例えば、永遠の寿命を幾ら願ったところで、そんな事、絶対に叶いようがない。そう考えると、いくら神様だって、出来る事と出来ない事があるのではと思えてくる。そこで、あらためて、神様が出来そうな事と、出来そうでない事という見方で考えを見直してみると、実は、神様は、私の願い事を、可能な限り受け止めて、最大限の力で叶えてくれたように思えてくる。神様は、それほどまでに願うのなら、余命宣告された最も長い期間までならばと、出来る限りを尽くしてくれたのではないだろうか?それと、ぺいだって、私の気持ちを察してくれて、癌で身体がボロボロになっても、最後の最後まで、一日一日を、私のために一生懸命頑張って生きてくれたように思える。それにしても、ぺいは、一日一日という時間が、どれほど辛く長かっただろうか?本当に感謝してもしきれない。きっと、神様とぺいは、私の願いに懸命に応えてくれたに違いない。それは、目には見えないけど、確かに感じる。それと、今までは、飼い主である私が、てっきり、ぺいを見守っているとばかり思っていたけど、実は、ずっと、私の方が、神様とぺいから見守られていたのかもしれない。もし、そうだとしたら神様とぺいには感謝してもしきれない。神様とぺいに、お礼をするとしたら何だろう?そもそも、私だからこその出来る事があって、それで、何か期待されているような気がしてくる。そういえば、火葬を終えた後、「本当に本が書けるぐらい色々な事があったね」と、母が話していた。今、ぺいが旅立った事で感じているぺいとの出会いの意味。もしかすると、ぺいと十数年前に出会った事は、実は、必然で偶然ではなかったのかもしれない。そして、平均寿命と比べれば、少し短かったかもしれないけど、一緒に過ごしてきた十一年という年月は、私の人生にとってかけがえのない凄く大切な宝物。もしかして、神様とぺいは、二人三脚で、そんな素晴らしい宝物を私の人生に授けてくれたのではないだろうか?

 

 猫は人間とは姿容が違う。言葉だって話せない。だけど、逆に考えれば、姿容が違う事と言葉が話せないだけの違いとも言える。そう考えると、人間だって猫だって、魂という本質的な部分では、微塵の差もないと言える。だから、命は人間も猫も全く対等という事になる。もちろん、これは人間と猫に限った事ではない。きっと、私は、人間と全く同じ尊い命たちを、そして、魂を大切にするという気持ちを、私にしか出来ない方法で、人類に伝えてゆく必要があるのだろう。そう、まさに、これこそが、私が、人間に生まれた一つ理由ではないだろうか?また、ぺいと出会った理由でもあり、神様とぺいから期待されている事のような気がする。では、私は、未来永劫、少しでも人類に伝えてゆくために何が出来るのか?それは、やはり、文字にして残す事が一番であるように思える。この世に永遠の命はない。だから、本にしておけば我々人類が存在し続ける限り、私の唯一無二の記憶を永遠に残すことが出来る。ぺいと命名された猫が、この世に生を受け、その後、人間から愛されて旅立っていったという記憶を残せる・・・。