「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

とある日、愛猫の「ぺい」に、突然、癌が宣告されました。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見て頑張った記録です。
今、癌と向き合っている、今まで癌と向き合ってきた...。
そんな周囲の方々に、お届け出来ると幸いです。

寿命が不平等である理由

しかし、なぜ、よりによって、ぺいの寿命が平均寿命よりも短くなければならなかったのか?その理由について考えていた。ただ、世の中にはもっと寿命の短い猫も存在している。だから、平均寿命と比べれば、悲しいものであっても、より短命の猫と比べると、それは、逆に喜ぶべき事になってしまう。そもそも、寿命の長短で悲しむこと自体、本当に正しいことなんだろうか?もし、誤った感覚に囚われて、悲しみが増幅しているのであれば、本来必要のない悲しみを背負っていることになる。もちろん、二度と感情そのものに接する機会が失われたということに対しての悲しみは仕方がない。でも、悲しみの中に何か損得勘定のようなものが少しでも含まれていたとしたら、それは、周囲の不幸が結果的であれ自分にとっての幸福になってしまうということを意味してしまう。そして、それは、平均寿命というものを意識した時点で生じてしまうし、このように物事を捉えてしまうと、結果的に、自分自身を余計に苦しめてしまうことにも繋がる。そこで、どのように寿命というものを捉えるのかについては、本当に真剣に考えておくべきだと思うようになった。そして、きちんと正しい捉え方なりの感覚を、自分自身のものに出来れば、もっと寿命というものの存在を素直に受け入れられるようになるように思ったのだ。では、一体、寿命の長短を、どのように捉えれば余計に悲しまなくても済むのか?でも、その答えに簡単に辿り着けるぐらいなら、最初から辛い思いなんてしていない。簡単に答えに辿り着けないから辛い思いをしているのだ。

 

そこで、せめて答えの糸口に少しでも早く近づくために、もし、寿命が最初から公平に決まっていたら、どうなんだろうかという事について考えてみた。そもそも世の中は不公平だ。だから、せめて寿命ぐらい公平でも良いのではと思ったりもした。それと、そもそも、最初から寿命を分かっていた方が毎日を大切に過ごせる気もした。ただ、その一方で、逆に、最初から寿命なんて分からない方が、毎日を大切に過ごせるような気がしなくもない。それでは、一体、どちらが良いのか?やはり、この答えを得るためには、漠然と考えるのではなくて、やはり、判断するための基準が必要なのだと思う。そして、その基準は、何だろうかと考えて直ぐに思いついたのは、どちらの方が、より多くのことを経験したり成し遂げたりすることが出来るか?という基準だ。ただ、そもそも、その判断の基準自体が本当に正しいのか?それが、正しい答えを得るための出発点に他ならないので、十二分に考え抜いておかなければならない。

 

そういえば、ぺいとの闘病生活で過去の心境を思い返してみると、ぺいが癌になってから旅立つまでの期間、ぺいと同じ空間で、同じ空気を吸って、同じ時間を過ごせるということが、本当に心の底から嬉しかった。それは、本来、辛くて悲しいことしか存在しないはずなのに、なぜか、逆に、とめどもなく幸福に思えるもので、まさに、幸福だけで満ち足りた天国のような世界で過ごしているような感覚だった。もちろん、これほどの幸福感は、過去の人生で一番と言っても決して過言ではなかった。そして、これ以上の幸福感を味わうことは、これから先、もう、生涯ないだろうとさえ思えた。でも、そんな幸福感は、物事の捉え方一つで生まれてくるように思えたし、日常においても、物事に対する捉え方を意識しながら過ごすことが、幸せを無限大に出来る唯一無二の方法に思えた。そして、もし、本当に神様が存在するなら、あえて寿命を、不公平で、いつ終わるか分からないものにしてくれていることで、逆に、我々が少しでも多くの幸せを感じられるように配慮してくれているのかもしれないのではと思えた。

 

それにしても、なぜ、不幸の渦中にあって、これほどの幸福感を味わえたのだろうか?その理由を考えてみると、それは、やはり、余命を具体的に宣告されたことによって、一日一日という時間の中で感じられることの全てが、自分自身の人生にとって本当に凄くかけがえのない大切なものに思えたからだと感じている。では、やはり、寿命は公平であれば、最初から分かっていた方が良いのだろうか?

 

私は、ぺいの余命宣告を聞いて以降、確実に癌に蝕まれてゆく様子を目の当たりにしながらも、奇跡が起きてほしい、世の中に絶対はないのだから、もしかしたら、何らかの奇跡で癌の進行が止まることもあり得る。そんな可能性を本当に最後の最後まで信じ続けた。でも、もし、最初から寿命が公平に決まっていたら、そこに可能性という希望なんて、全く生まれる余地がない。だから、もし選択肢があるなら、生まれた時から寿命が公平に決まっていて、寿命に対して全く希望を抱けない世界に生きるのと、寿命を知る由もなく、寿命がいつ終わるのか不安を抱きながらも自由に希望を抱けることの出来る世界に生きるのと、どちらが良いか?という選択になってくる。あなたは、どちらが良いだろうか?正直、悩ましい選択かもしれない。でも、後者の方が良いのではないだろうか?ちなみに、私は悩んだ末、後者という結論に行きついた。その一番の理由は、知らぬが仏という言葉もあるように、例え寿命が分からなくて、さらに寿命が不平等であっても、寿命という時間を過ごしてゆく上では、結果的であれ、後者の方が、心が安定した状態で日々過ごせるように思えたからだ。そして、この心の安定、そして、その追求こそ、人間の究極の目標であり、また、心の安定は、寿命が最初から公平に決まっていた方が良いか否かを判断するにあたって、最も相応しい基準ではないだろうか?だから、寿命の長短というもので、余計に悲しむことなく過ごす為に思うのは、いつ寿命が終わるのか分からないということ、分からないということは結果的に公平にはならないということ、でも、だからこそ、希望というものを抱きながら生きられるのだと思うのである。そして、希望を抱けるからこそ、日々、心に安定がもたらされているということ、そして、このような状態こそが一番望ましくて、最も望んだ形で寿命を全うしているという認識を持っておくべきこそが、寿命の長短で余計に悲しまないようにするためにも、より有意義に人生を全うしてゆくためにも、非常に大切に思うのである。そして、これらのことを逆説的に言うと、寿命を有意義に全うしてゆくためには、何があっても、最後の最後まで、命が尽きる本当に直前まで、希望を抱き続けるべきということ、そのことを一番大切にすべきということ、だから、寿命というものを決して粗末にしてはいけないということ、そういったことをぺいの最期を看取って思ったのです。それは、我々の身体を構成する細胞の一つ一つや、臓器は、少しでも長く生きていられるように、最後の最後まで、希望を抱いて決して希望を捨てないで一生懸命頑張ってくれているのですから・・・。

猫を人と同じように愛せる理由

それにしても不思議だ。冷静に考えてみれば、どうしてこんなに悲しいのか?命は永遠でないことなんて分かっていた。だから、少しぐらいは、心の準備もしていた。それと、癌で旅立ったから突然の別れでもなかった。それと、そもそも旅立ったのは人ではない。猫だ。もし、どんなに悲しくても、それが、人に対してであれば、特に疑問を感じることもなかったのだろう。しかし、どうしてこんなに猫の旅立ちが悲しいのか?それは、もちろん愛していたから何だろうし、悲しみの深さは、愛した深さの副作用のようなもので仕方ないのだとは思う。でも、そんな悲しみが同じ人間に対する感情なのであれば、人を愛することには、自分の子孫を残すことに繋がるという側面もあるし、例え子孫を残すことに繋がらなくても、悲しみは、ごく当たり前の事として特に疑問すら感じなかったように思う。だけど、これほどまでに猫を失ったことに対する辛い悲しみは、どのように理解して、どのように消化してゆけば良いのか?なぜなら、悲しみのストレスで自分自身の命を失ってしまっても仕方ないとまで思えたし、それで命を落とすなら本望とまで思えたのだ。でも、悲しみと辛さから、どうにかして早く脱したかったのは事実で、だからこそ、私は、これほどまでに悲しい事の理由と、この悲しみの意味を知りたかったのだ。そして、その事について、きちんと理解出来れば、悲しみや辛さを、少しでも上手く受け止められる、そんな気がしたのだ。

 

そもそも深い悲しみの理由を考える糸口として、人と猫との違いについて考えてみた。まず、一番分かり易いのは外見だ。次に、その他の違いについて考えてみると、人は言葉を話したり文字を扱うことが出来る。だから、頭脳も違う。でも、改めて根本的に何が違うのかについて考えてみると、どうしても、この二つしか思いつかない。そこで、外見の違いと頭脳の違いに焦点を絞って考えてみることにした。まず、あの世が存在すると仮定して、もし、そうだとしたら、あの世ではどうか?まず、外見の違いについてはどうか?この世では、確かに外見は異なっている。でも、もちろん、あの世に肉体を持ってゆくことは出来ない。と、いう事は、外見の違いについては、この世だけに限った、それも些細な違いに過ぎないという事になる。次に、もう一つの違いである頭脳についてはどうか?頭脳の違いは、脳細胞が活動して得られることの差だ。それは、頭脳の違いによって、人は人なりに、猫は猫なりに、色々なことを感じたり考えながら生きているということを意味している。もちろん、頭脳が優れているほど幸福感を多く感じられるという訳でもないだろう。それと、そんな脳細胞だって身体の一部だから、頭脳の違いも、あの世に持ってゆくことは叶わないという事になる。そうすると、あの世には、身体の違いも頭脳の違いも持ってゆけないから、あの世では、人と猫には、全く違いがないことになる。結局、人間と猫の違いである外見や頭脳は、この世だけ限定の本当に些細な違いに過ぎないのではないだろうか?しかし、異論を唱える人もいるはずだ。なぜなら、あの世に行くとき、命は肉体という物質には依存しない目には見えない魂というものに変わるという考え方もあるからだ。そして、そもそも人と猫の魂は似て非なるものという価値観もあるかもしれない。しかし、魂の世界は、我々に備わっている五感では認識出来ないことなので、幾ら議論を尽くしても妄想の域を脱しえない。ただ、個人的には、人と猫の魂は異なるという考え方は、人間の自己愛に満ちた人間に都合の良い考え方のように思えてならない。それは、どんな命であっても、目に見えない命そのもの自体の尊さに全く差などないはずだと思うからだ。そして、このように命というものを捉えると、もし命が魂というものに変わったとしても、その魂にも差などないように思うのだ。だから、私は、人と猫の魂そのものに全く違いはないと思ったし、そこから転じて、人と猫の違いの本質は、この世で全うする役目が違うだけだと思うようになった。ちなみに、我々人間は、基本的に人間として生まれてきて一番幸せで良かったと思っている。だけど、実は、猫だって、猫の価値観によって猫に生まれてきて一番良かったと思っているのではないだろうか?ようするに、自分の境涯に幸せを感じるかどうかは、自分自身の心で決めるものだから、人と猫の全うする役目の違いによって喜怒哀楽の量や質に違いこそは存在しても、人と猫のどちらが幸せかなんて決めることは出来ないだろう。

 

さて、ここで、そんな猫を、どうして人と同じように愛せるのかについて考えてみたいのだけど、その前に、まずは、人と猫との違いと同じように、我々、人間同士での違いを考えてみたい。最初は外見の違いだ。人間同士だって性別によって外見は異なっている。では、頭脳の違いについてはどうか?頭脳だって人それぞれに記憶力や思考スピード、着眼点するポイントや価値観は人それぞれ異なっている。そして、猫は人の言葉を話すことは出来ないけど、同じ人間同士でも自分の意思や気持ちを上手く表現出来ないこともあれば、自分の意思を正直に表現出来ないことも山ほどある。もちろん人間同士の違いは、人と猫との違いに比べれば些細なことなのかもしれない。しかし、我々人間同士に視野を狭めて考えてみても、人と猫の違いと違いの基準は同じだということが分かる。でも、我々人間同士であれば、そんな違いは、基本的に人それぞれに生まれ持った強みや弱みだと理解して助け合いながら生きている。違うからこそ生まれる助け合い。違うからこそ生まれる思いやり。そして愛。未来は違うからこそ生まれゆくのだと思える。そこで、そういった事も踏まえつつ、もう一度、猫という存在について考えてみたいと思うのだけど、その前に蚊という生き物に対して、猫に対する思いと同じ思いが生まれるだろうか?蚊だって人と猫の違いと同じではないだろうか?外見と頭脳が違うだけなのではないか?それなのに、なぜ、人間同士や猫に対する思いと同じ思いが蚊に対して生まれないのか?そんな事も含めて考えてみると、思いやるという気持ち、愛するという気持ち、その気持ちの源泉は、例え無意識であっても自分に何か精神的にプラスの作用がもたらされているからという結論になってくる。では、猫という存在は、一体、人間にどんな精神的プラスをもたらしているのか?そもそも人間という生き物は、他の生き物より頭脳が圧倒的に優れていることが一番の特徴なのだと思う。でも、それが故、圧倒的に劣っていることがある。それは、過去のことを反省したり未来のことを心配したりしてストレスという不幸を自らの力で生産してしまう生き物だということだ。これは、頭脳が優れているがこその特徴であって人間の宿命なのだと思う。だからこそ、人間は、そんなストレスを和らげてくれる存在や出来事を常日頃から欲していて、そんなストレスを和らげてくれる存在が、猫であったりするのではないだろうか?だから、我々は、そんな猫だからこそ、猫の感情を察してあげたくなるし、猫に喜んでもらえると嬉しくて幸せな気持ちになれるし、だからこそ、猫を人と同じように愛せるのだと思うのである。

 

我々は、決して一人では生きられない。もちろん、地球上に人間だけでも生きられない。もし、地球上に人間だけが生きていても意味がない。なぜなら、我々人間は、数知れない動植物などの存在があってこそ生きられているし、それら全てを頭の良い頭脳を使って共存共栄の精神で大切にする事こそに、我々人間の存在意義があるように思うからだ。あらためて、猫だけでなく、我々の周りの万物に感謝の気持ちを持ちたい。

■エピローグ

どれだけ涙を流した事だろう・・・。もう、これ以上書くのは無理・・・。過去を、記憶を、振り返ることが、あまりにも辛くて筆の進まない時期が何度もあった。特に後半の第四章以降は、本当に辛かった。また、あの悲しみの記憶を思い出すということ。それは、最初は、全く同じ経験を繰り返すことと同じだと思っていた。でも、どうしてあの時、もっと気づいてやれなかったのか?その時その時で最善を尽くしたはずだったのに、「ぺいちゃん、ごめんな、ぺいちゃん、痛かったよな、ごめんな、ごめんな」と、文字を入力する手を止めて何度もパソコンの前でうつ伏せになって泣いた。それは、最初に思っていた単純に同じ経験を繰り返すよりも遥かに辛かった。そして、そんなことを繰り返していた時、ふと、一つだけ確信出来た事があった。それは、これほどの悲しみは、溺愛の我が子を十一歳で失った時の悲しみと絶対に同じだ!という思いだった。今の私に、実際に人としての我が子はいないから、これは、想像上の事でしかないけど、絶対に同じだと断言出来た。

変らないもの

間もなく、ぺいが旅立った日から二年半になろうとしている。そして、もし、今も生きてくれていたなら、今日は、十四歳の誕生日という事になる。きっと、どんなスペシャルメニューでお祝いしようか、一週間ほど前から色々と考えていたはずだ。そして、そんな食事を目を丸くしながらガツガツと喜んで食べてくれる様子が自分の事以上に嬉しくて、「長生きしろよ!」なんてことを思っていたに違いない。ちなみに、今、この文章を書いているのは、偶然にも、ぺいの月命日である二〇一七年一月二十三日だ。このところ、なかなか筆が進まなくて、いつもの神社で、「良い文章が書けるように頑張るので、どうか力をお貸し下さい」と、神様に手を合わせてきたばかりだ。そうしたら、不思議なもので急に筆が勢い良く進み始めて良かったたのだけど、同時に涙が凄く溢れてきたのだ。そう、もうあれから随分年月が経った。それなのに、時折、未だに悲しみが胸の奥から込み上げてくる。

昨日は、月命日という日を迎えるにあたって、まず、仏壇や仏具などを全部綺麗に拭いた。月命日という日に綺麗に拭くというのは、ぺいは、いつも綺麗好きだったからということもある。それと、鳥肉を茹でたものをほぐして仏壇に供えた。なぜ、肉をほぐすのかというと、口の癌のせいで食べ物を食べにくかったからだ。そう、今も、ぺいは、私の心の中で変わらず生きている。もちろん、昔と比べれば姿は変わったし「ニャー」という声だって聞こえてはこない。けれど、私の心の中では確実に生きている。だから、仏壇を綺麗に拭けば喜んでくれるように思うし、生前、目の色を変えて食べてくれていたものを供えれば、凄く喜んで食べてくれるように思うのだ。

 

そういえば、最近、生と死について思ったことがある。それは、生きていても心の中に全く存在していなければ、死んでいるのと同じことだと思うし、逆に、死んでいても心の中に生きていれば、それは、生きているのと同じ事ではないかという事だ。だから、肉体的な存在がなくなったからといってイコール死とはならないような気がするのだ。そうした理由からも仏壇の生花は、一周忌までは、とにかく一日たりとも絶やさないようにしてきた。それは、短い命を謳歌している元気な花に常に取り替え続けることで、ぺいの魂に生のエネルギーのようなものを不思議と送れるような気がしたからだ。ぺいのことを心の中に少しでも変わらず思っていたい。そんな気持ちで一杯で、いつも持ち歩いているスマートフォンには、毎月、月命日の十三時半にはアラームが鳴るようにセットしてある。もちろん、仕事中でなければ黙祷しながら手を合わせて、仕事中であれば心の中で手を合わせるようにしている。それは、月命日の旅立った時刻には、ぺいの事を必ず頭の中に思っていたいからに他ならない。でも、そんな時、いつも思い出してしまうのは、やっぱり、あの絶命した最期の瞬間だ。

 

ここで花の事以外にも、今でも毎日続けている事について書いておきたい。まず、一つ目は、お供えの水の交換だ。水は、生前の時と全く同じように朝晩の二回、必ず新鮮なものに取り換えるようにしている。もちろん、水を注ぐ容器は毎回綺麗に洗う。それと、長い間、水が飲めずに辛かったと思うので、天国では新鮮で美味しい水を好きなだけ飲んでほしくて、いつも水は溢れんばかりに注いで、「ぺいちゃん、水、いっばい飲めな~」という言葉を添えて仏壇に供えるようにしている。このように取り替えている水は、旅行で家を空けた数日間だけは取り替えが出来なかったけど、それ以外の日は、一日たりとも欠かさず続けてきた。でも、新鮮な水を供えれば喜んでくれているように思えて、一度たりとも面倒に思ったことなどないし、むしろ新鮮な水を供えることは喜びにすらなっている。そして、夜には、水の交換と同時に、ろうそくと線香にも火を着けて手を合わせている。それと、もう一つ続けていること。それは、仕事で外出する時には、ぺいの頭を擦ってやるイメージで骨壺の覆いを擦って、「ぺいちゃん、仕事頑張ってくるからな~」と伝えて、逆に、仕事から戻った時には、「ぺいちゃん、帰ったよ~」と、声を掛けている。そして、もし、一日を順調に気分良く終えられたら、「ぺいちゃん、ありがとうな!」「ぺいちゃんのおかげだよ!」といった事を伝えて、逆に、辛いことがあった時には、「ぺいちゃん、どうしたら良い?」「ぺいちゃん、助けてくれよ~」といった言葉を、ついつい投げかけている。もちろん、ぺいは何かアドバイスをくれたりする訳ではないけど、でも、それは、生前と何も変わらないこと。もちろん、姿は変わっているし、「ニャー」という鳴き声だって聞こえてこないけど、心の中に生きているぺいは、何一つ変わっていない。逆に存在が大きくなっていると感じることさえある。だから、もし、日常の生活で良い事があれば、ぺいが見守ってくれていたからだと思えるし、逆に、悪いことがあれば、励ましてくれたり慰めてくれる。結局、生きているかどうかは、姿形が存在しているかという問題ではなくて、心が何を感じるかの方が大切に思える。なぜなら、心や感情こそが、生きている証に他ならないからだ。ぺいは、もう骨になってしまった。すっかり、生前の姿とは変わった。でも、今も変わらず励ましてくれたり慰めてくれている。それが事実なのだ。本当にありがたい。ぺいという存在に本当に出会えて良かった。一緒に暮らせて本当に良かった。日々、そんな思いを抱きながら手を合わせている。

祈りの場便り

仏具を取り揃えたインターネット上の某ショップには、「祈りの場便り」というコーナーが設けられていて仏具を購入する際に拝見した。そのコーナーは、ショップで仏具などを購入した人が、旅立ったペットへの思いを投稿していて、ペットの元気な頃の写真や供養している写真も添えられているコーナーだ。私は、それらを見て思った。自分だけじゃないんだ。みんな悲しかったんだ。みんなペットのことが大好きだったんだ。そう思うと、それで、ほんの少しだけど元気を貰えたような気がした。そうだ!いつか自分もここに投稿しよう。もし、ここに、掲載すれば、ぺいが最後の最後まで頑張った事を、他の人にも知ってもらう事が出来る。そうすれば、きっと、ぺいだって喜んでくれる。もう、旅立ったぺいには餌もあげれないから、ぺいに喜んでもらえることは限られている。だけど、ぺいが喜んでくれそうな事、そんなことを見つけられた事が凄く嬉しかった。それで、投稿のタイミングを考えようと思った。

 

 それから、月日は流れ、数か月経ったある日、そうだ!一周忌の様子を写真に撮って投稿しようと思った。そして、そう決めた時には、ぺいとの闘病の記憶を本にしたいと思って執筆を進めていたので、そのことについても、折角なので触れようと思った。

 

 それから、再び月日は流れ、無事、一周忌を終えたのだけど、あの日、投稿を決めてから、どんな事を投稿しようか少し考えながら、日々、過ごしてきた。例えば、ぺいに癌が見つかって以降、一周忌までの間に感じてきたことや、ぺいとの闘病の記憶を本として残す事が出来た際には、「ぺい、ありがとう!」という言葉を添えて神棚に供えたいと思っていたので、そのようなことを文章にしてみた。ちなみに、一周忌を終えた時には、まだブログを立ち上げてなかったし、ぺいという猫がいた事を広く世間に初めて紹介するものになるから、文章の作成には少し時間が必要で、結局、一周忌から考え始めて五日目に完成した。それと、文章に添える写真は、掲載スペースの関係で二枚程のようなので、どの写真にするか考えた。元々、一枚は、一周忌の時の写真にするのは決めていたけど、残るもう一枚は、生前の元気だった頃の写真にするか、闘病中の写真にすべきか、少し悩んだけど、結局、元気な頃の写真にした。やっぱり、元気だった頃の方が圧倒的に長かったし、悲しい時の写真ばかりというのは、なんだか違うと思ったからだ。そうして、完成した文章と二枚の写真をショップの掲載受付先のメールアドレス宛に送った。

 

 翌日、仕事を終え、自宅のPCでメールの受信トレイを確認してみると、早速、ショップから返事が届いていたのだけど、返事を読み始めて直ぐに感じたことがあった。それは、凄く嬉しかったからだ。私は、てっきり、事務的に受付けましたという返事が返ってくるのだとばかり思っていたのだけど、実際には、短い文章ではあったのだけど、私の心情を本当に良く察してくれているように感じたからだ。もちろん、送信した文章と、写真の掲載予定日も記載されている。そこには、明日の日中と書かれてあった。

 

 翌日、もちろん、朝から、凄くワクワクしながら過ごしていた。これで、また、一つ、ぺいに喜んでもらうことが出来る。そう思うだけで嬉しかった。そして、昼の休憩時間、スマートフォンから掲載されているか確認してみると、メールで送っていた文章や写真が本当に掲載されていて感無量。そんな感覚になった。感無量なんて本当に大げさだと思うかもしれない。でも、本当に嬉しかった。私は、心の中で直ぐにぺいに報告した。「ぺい、これで、みんなに知ってもらえるからな!」「これで、お前が一生懸命頑張ったことを知ってもらえるからな・・・」これで、ぺいの苦しみが少しは報われる。きっと、ぺいは喜んでくれている。私は、そんな事を思いながら、暫し至福に満ち足りた時間を過ごした。

 

 そして、夜、帰宅して、今度は、自宅で、あらためてパソコンから掲載を確認してみることにした。やっぱりパソコンで見た方が見やすい。あらためて嬉しさが込み上げてきた。早速、掲載されている部分を印刷した。なぜなら、明日、母に見せようと思ったからだ。正直、母に文章を見せるのは、かなり小っ恥ずかしい。でも、母は、ぺいから見れば間違いなく恩人のような存在のはずだ。だから、公の場に掲載したことを母に知らせておくことは、ぺいの意思であり願いのように思えたので、私は、その事の方を優先した。