「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

まだ数年は続くと思っていた、愛猫「ぺい」との平凡な日常。
しかし、その後の誤診と突然の癌宣告...。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見た記録です。

著書を紹介頂きました

この度、仏壇・仏具を購入した『ディアペット』さまに、私の著書をお送りいたしましたところ、書籍について紹介頂きました。

 今年で、愛猫が旅立ってから6年目になりましたが、温かい文面を拝見し、年甲斐もなく、久々に涙が止まりませんでした。

素晴らしい写真付きで紹介頂きまして、本当に有難うございます。

今、猫の癌と向き合っている。現在、ペットロスになっている... 
そのような方に読んで頂けると少しは気持ちが楽になるかもしれません。
もし、ご興味がありましたら、以下のURL記事を参照下さい。

【紹介記事】http://dearpet.memorial/2020/03/09?cat=2

 

この度、本ブログを書籍化しました

書籍の種類:「通常の紙媒体の書籍」「電子書籍(Kindle)」の二種類です。
※紙媒体の書籍には、闘病中の写真や、診断書、会計時の領収書などもカラーで多数掲載しました。電子書籍の方は、文字だけとなります。

神様からの贈り物 ~扁平上皮癌との闘い~

  なお、紙媒体の書籍は、在庫を持たないで、注文の都度印刷をするという販売方法(ペーパーバッグ方式)の為、それなりの値段になります事、ご了承頂けますと幸いです。ただ、手前味噌ではありますが、猫の扁平上皮癌で、ここまで詳細に闘病の記録や、飼い主の心理状態を綴った本は、なかなか他にはないように思っています。

   因みに、当ブログを立ち上げて、この度、書籍化した理由は、プロローグ等にも少し記述しておりますが、主に以下の2つでした。

①.ぺいとの思い出を書籍化して、ぺいと私が、一緒に生きた思い出を人類の記録として国立国会図書館に寄贈し永遠に残したかった。

②.出来上がった本を、ぺいが眠る神棚にお供えして、ぺいがこの世に生まれた事、癌で闘病した事を、微力ながら、より意味のあるものにしたよ!と、報告して、ぺいと神様へ恩返しをしたかった。

  いずれにしましても、今回の書籍化で、本当の意味で大きな区切りをつける事が出来ました。そして、振り返ってみれば、一度しかない人生の時間の中で、これほどの悲しみを感じられた事、それは、逆に、実は凄く幸せなことであったと思っています。ですので、文章を書くための時間、推敲の時間は、凄く長い道のりでしたが、全く苦には感じませんでした。むしろ、これほど自分の心を突き動かすものと出会えた事は、人生を有意義にするものでもあり、大変感謝しています。

「あらためて、ぺいちゃん、そして、神様。本当にありがとう!」

寿命が不平等である理由

しかし、なぜ、よりによって、ぺいの寿命が平均寿命よりも短くなければならなかったのか?私は、その理由について考え続けていた。しかし、そうは言っても、世の中には、もっと寿命の短い猫だっている。そして、そういった事までを踏まえて考えると、結局、平均寿命と比べてしまえば悲しいと思える事でも、より短命の猫と比べれば、少なからず逆に喜ぶべき事になってしまう。そもそも、相対的な寿命の長短で悲しむこと自体、本当に正しいことなのだろうか?もし、無意識であったとしても、誤った感覚や価値観に囚われていて、悲しみそのものを増幅させてしまっていたとしたら、それは、本来、不要であるはずの悲しみさえも背負っている事を意味してしまう。もちろん、感情そのものに接する機会が永遠に失われたという悲しみそのものは仕方がない。しかし、もし、悲しみの中に何か相対的な損得勘定のような感覚が少しでも含まれていたとしたら、それは、周囲の不幸が結果的とはいえ、自分にとっての得(幸福)に繋がってしまうという事を意味する。さらに、この事実は、平均寿命というものを意識した時点で生じてしまうのである。そして、このような感覚は、結果的に自分自身を余計に悲しみの淵に追い込んでしまうものになる。

 

それでは、どのように寿命について捉えておけば、余計に悲しまずに済むのだろうか?きちんとした正しい捉え方を、自分自身のものに出来ていれば、もっと、寿命というものの存在を、素直に天命として受け入れられるようになるのではないだろうか?でも、その答えに簡単に辿り着けるようなら最初から苦労なんてしていない。簡単に辿り着けないから悲しくて辛い思いをしているのだ。

 

そこで、まずは、もし、寿命が最初から平等に決まっていたとしたら、どうなのかという事について考えてみようと思った。そもそも世の中は不平等だ。だから、せめて寿命ぐらいは、平等でも良いのではと思ったりもした。それと、最初から寿命が分かっていた方が、毎日を大切に過ごせるような気もした。ただ、その一方で、逆に、寿命なんて分かっていない方が、毎日を大切に過ごせるような気もした。結局、一体、どちらの方が良いのか?しかし、この結論を幾ら得ようとしても、漠然と考えているだけでは、いつまで経っても答えなんて出ないと思うに至った。答えを得るためには、答えを得る為の糸口というものが必要で、それには、何か判断基準が不可欠だと思ったのである。では、糸口を得るための判断基準とは、一体、何だろうか?直ぐに思いついたのは、どちらの方が、より多くの事を経験したり成し遂げたり出来るのか?という基準だ。でも、その基準自体、本当に正しいのか?正しい答えを得るための糸口である以上、慎重にならなければならない。

 

そういえば、ぺいとの闘病生活の時の心境を思い起こしてみると、ぺいが癌になってから旅立つまでの間、ぺいと同じ空間で同じ空気を吸って、同じ時間を過ごせるという事が、本当に心の底から嬉しかった。でも、それは、余命僅かという時期であるので、本来なら本当に辛くて悲しいことばかりのはずなのに、とめどもなく幸せに感じられるものだったのだ。その感覚は、幸福感だけで満ち溢れた時空世界で過ごしているような感覚だった。もちろん、これほどの幸福感は、過去の人生の中で一番とも言えるもので、これから先の人生、これ以上の幸福感を味わう事は、もう二度とないだろうとさえ思った。そして、もう一つ思った事がある。それは、幸福感というものは、本当に物事の捉え方次第で生まれてくるものなんだな、というものだった。なぜなら、悲しみとは正反対の幸福感という状況に、自分自身、正直、驚きを感じたからだ。そして、この感覚、捉え方が常に出来たなら、人生、最高に幸福な気持ちで過ごせるし、もし、幸福感を無限大に出来るのだとしたら、これはきっと、唯一無二の捉え方に違いないと思えた。そして、それとは別に、もし本当に神様というものが存在するのなら、神様は、我々が幸福感を少しでも多く感じられるように、あえて寿命というものを、不平等で、いつ終わるのか分からないものにしてくれているのではないだろうか?そんな事を逆説的に考えてみたりもした。自然の摂理ほど良く出来たものはないからだ。

 

ところで、そもそも、どうして不幸の渦中に、これほどの幸福感を味わう事が出来たのか?その理由を、掘り下げて考えてゆくと、それは、余命を具体的に宣告されたことによって、一日一日という時間が過ぎゆく中、五感で感じられる事の全てが本当にかけがえのない事で、そのどれもが凄く大切に思えたからだ。では、そうすると、やはり寿命は、平等で最初から分かっていた方が良いのか?

 

私は、ぺいが癌に蝕まれてゆく様子を目の当たりにしながらも、奇跡が起きてほしい、世の中に絶対はないのだから、もしかしたら、何らかの奇跡で癌の進行が止まることもあり得るかもしれない?そのような可能性を、本当に最後の最後まで信じ続けた。でも、もし、最初から寿命が平等に決まっていたらどうだろうか?そこには、全く希望なんて生まれない。生まれる余地さえない。そうすると、寿命というものに、もし選択肢があるのだとすれば、一つは、生まれた時から寿命が平等に決まっていて、寿命に対して全く希望を抱けない状況で生きるのと、もう一つは、寿命を知る由はなく平等でもないけれど、自由に希望を抱けることの出来る状況で生きるのと、どちらが良いのかという事になってくる。あなたは、どちらの方が良いだろう?ちなみに、私の場合は、悩んだが後者という結論に至った。それは、知らぬが仏という言葉もあるように、例え寿命が分からなくて寿命そのものが不平等であっても、そんな人生の方が、心が安定した状態で過ごせるように思えたからだ。私は、この心の安定こそが、我々人間が最も大切にしたい本能であるように思う。そして、これこそが、寿命が平等で最初からに決まっていた方が良いか否かを判断するに最も相応しい判断基準であるように思えたのです。

 

さて、それでは、ここで話を最初の話に戻して、そうすると、結局、寿命の長短で余計に悲しまないようにする為には、どのように寿命というものを捉えておけば良いのか?そこで、私が思うのは、心の安定を得るために、最も望ましい状態で、今、寿命という天命を全うしている、と捉えておくというものです。結果的であっても、寿命が不平等で分からないからこそ、その裏返しで、心の安定が得られているからです。そして、もう一つ、裏返しで得られているものがあります。これは、最も大切にしなければならないものだと思います。それは、希望を抱けるという権利です。もし、平等な寿命であったとしたら、そこに希望を抱く事は出来ません。希望とは、寿命が不平等で分からないものだからこそ得られている大切な権利なのです。だから、何があっても最後の最後まで、本当に命が尽きる直前まで、希望を抱き続ける。希望とは良くなる事の想像です。人間は、頭が良いから未来を想像する力があります。我々は、この能力を有意義に本当に大切に活かして、日々を送るべきだと思うのです。

 

私は、ぺいの最期を看取って以降、深く長い悲しみを経験しました。しかし、だからこそ、このような事を真剣に考える機会に恵まれたのだと思っています。そして、このような機会を得られた事こそが、本当の「神様からの贈り物」であったように思えたのです。本当にぺいと神様には、心から感謝しています。

 

 

神様、そして、ぺいちゃん。本当にありがとう。

猫を人と同じように愛せる理由

それにしても不思議だ。冷静に考えてみると、どうしてこんなに悲しいのか?命が永遠でない事ぐらい分かっていた。少しぐらい心の準備もしていた。癌で旅立ったから突然の別れでもなかった。それと、そもそも旅立ったのは人間ではない。人間とは種族が違う猫だ。もし、どんなに悲しくても、それが、同じ人間に対してなのであれば、特に疑問を感じる事もなかったように思う。それは、人を愛する事には自分の子孫を残すことに繋がるという側面もあるし、例えそうでなくても、ごく自然の感情として受け止められるからだ。しかし、人間ではない猫の旅立ちに対する長くて深い悲しみは、どのように理解すれば良いのか?悲しみの深さは、愛した深さに比例するというのも分かる。ただ、悲しみのストレスで自分自身の命を失うのなら仕方ないとまで思えたし、そもそも、それで命を落とすぐらいなら本望とまで思った。そこで、私は、どうして人間ではない猫に対して、ここまで思えるのか?その理由や意味を知りたくなった。そして、もし、それらを理解出来たなら、もっと、悲しみを上手く受け止められる。もっと、ありのままに悲しみを受け止められる。そうすれば少しは楽になれると思ったのだ。

 

そこで、まず、深い悲しみの理由を考える糸口として、人と猫との違いについて考えてみる事にした。まず、一番分かり易いのは外見の違いだ。次に、その他の違いについて考えてみると、人は言葉を話したり文字を扱うことが出来るので頭脳も違う。でも、改めて何が違うのかについて整理してみると、どうしても、この二つの事しか思い浮かばない。そこで、外見の違いと頭脳の違いに焦点を絞って考えてみる事にした。まず、あの世が存在するものと仮定した場合、あの世ではどうか?最初は、外見の違いについて考えてみる。この世では、確かに外見は異なっている。でも、もちろん、あの世に肉体を持ってゆくことは出来ない。そうすると、外見の違いについては、この世だけに限った、それも些細な違いに過ぎないという事になる。次に、もう一つの違いである頭脳の違いについてはどうか?頭脳の違いとは、脳細胞が活動して得られることの差だ。頭脳の違いによって、人は人なりに、猫は猫なりに、色々なことを感じたり考えながら生きている。もちろん、頭脳が優れているほど幸福感を、より多く感じられるという訳でもないだろう。しかし、いずれにしても、そんな脳細胞も身体の一部にしか過ぎない。だから、頭脳の違いも、あの世には持っていけないという事になる。そうすると、あの世では、人も猫も全く違いがないという事になる。結局、人間と猫の違いである外見も頭脳も、それらは全て、この世限定の本当に些細な違いに過ぎない。しかし、あの世も含めて考えると、肉体という物質には依存しない魂というものが、人間と猫では、違うという考え方もあるだろう。しかし、魂の世界が、仮に本当に存在したとしても、それは、我々に備わっている五感では認識出来ない世界。だから、幾ら議論を尽くしても妄想でしかない。ただ、私自身、個人的には、仮に魂というものが本当に存在したとしても、人と猫で魂が異なるという価値観は、人間に都合の良い自己愛に満ちた考え方のように思えてならない。なぜなら、どんな命であっても、目には見えない命、そのもの自体の尊さに差などないと思うからだ。だから、もし、命というものが、魂というものに変わったとしても、元々の命の尊さ自体に差がないので、魂自体にも差など生じるはずがないという考え方だ。そういった訳で、私は、人と猫の違いの本質は、この世で全うする役目が違うだけだと思うようになった。

 

ここで、役目の部分について少し考えてみたい。我々人間は、基本的に人間として生まれてきて一番幸せで良かったと思っている。だけど、実は、猫だって、猫の価値観によって、猫に生まれてきて一番良かったと思っているのかもしれない。役目が違う事で、喜怒哀楽の量や質に違いは生じても、結局、自分の境涯に幸せを感じられるかどうかは、自分自身の心で決めるもの。役目が違うからといって、人と猫のどちらの方が幸せかなんて決められないように思う。だから、そういった意味においても、魂が人間と猫とでは異なるという価値観は、人間の自己愛に満ちていると感じてしまうのだ。

 

では、ここからは、そんな猫を、どうして人と同じように愛せるのか?について考えてゆきたいのだが、その前に、まずは、人と猫との違いと同じように、我々、人間同士の違いについて少し考えてみたいと思う。最初に外見の違いについてだ。人間同士だって性別によって外見は異なっている。では、頭脳の違いについてはどうだろうか?頭脳だって、人それぞれに記憶力や思考スピード、着眼するポイントや価値観が異なっている。それと、猫は、人の言葉を話すことが出来ないから人間との間で意思の疎通に不便があるけれど、同じ人間同士であっても、自分の意思や気持ちを上手く表現出来ないこともあれば、そもそも自分の意思を正直に表現出来ない事だってある。もちろん人間同士の違いは、人と猫との違いに比べれば些細なことかもしれない。でも、一旦、我々、人間同士の違いに視野を狭めて考えてみると分かる。それは、程度の差はあっても、人と猫の違いと、違いの本質は同じだということだ。

 

それと、もう一つ。愛せるかどうかという視点で、極端な例を考えてみたい。それは、蚊に対して猫への愛と同じ思いが生まれるだろうか?という事だ。蚊だって人と猫の違いと全く同じで、外見と頭脳が違うだけではないのか?それなのに、なぜ、人間や猫に対する思いと全く同じ思いが、蚊に対しては生まれないのか?そんな事も全部ひっくるめて考えると、やはり、愛するという気持ちの源は、例え無意識であったとしても、自分自身に何らかの精神的にプラスになる作用があるからだという事になってくる。

 

では、猫という存在は、一体、人間にどんな精神的にプラスになる作用をもたらしてくれているのか?そもそも人間という生き物は、他の生き物より頭脳が圧倒的に優れている。それが、紛れもなく人間の一番の特徴だろう。でも、だからこそ、他の生き物と比較した時に圧倒的に劣っている事がある。それは、過去のことを反省したり、未来のことを心配したりして、ストレスという不幸を自らの力で生産してしまうということだ。でも、これは、人間の頭脳が優れているがこその特徴であって、人間の宿命ともいえる。そこで、我々は、そんなストレスを和らげてくれる存在を欲していて、それこそが猫であったりするのだと思うのです。では、猫は、どのようにストレスを和らげてくれているのか?それは、きっと、人と猫の違いによるものからもたらされているはずだと思うのです。

 

猫は、人間の言葉を喋ることが出来ません。だから、人間は猫が、どのような心理状態なのかを推察することになります。そして、猫の方も、人間の言葉は分からないから、お互いが相手の心理状態を敏感に感じ取ろうとします。そうすると、時間の経過とともに魂と魂の付き合いみたいになってゆくのではないでしょうか?そして、さらに年月を重ねてゆくと、言葉がなくても明確に猫の気持ちが理解出来るようになる。でも、その一方で、人間同士のコミュニケーションについてはどうでしょうか?文字があったり、言葉を喋ったりして、意思や感情を伝えることが出来ます。それはそれで、凄く良い事ではあるけれども、我々は、人間社会で生きてゆく為、その部分に過度に依存し過ぎたり、影響され過ぎていて、実は、本当に大切にしたいものを見失いがちなのではないでしょうか?そして、我々は、そんな人間社会で無意識のうちに蓄積してしまっている社会的ストレスを解消したくて、それで、そのようなストレスを中和してくれる猫の存在を、人と同じように、時には、人以上に愛せると思うのです。

 

我々は、決して一人では生きられません。もちろん、地球上に人間だけでも生きられません。仮に、もし、地球上に人間だけが生きていても意味がないように思います。それは、我々、人間は、数知れない動植物の存在があったからこそ、今まで生きてこられた訳ですし、これからもそのように思うからです。それと、我々、人間同士であれば、違いは、それぞれに生まれ持った強みや弱みだと理解し合いながら生きています。違うからこそ生まれる助け合いや思いやり、そして、違うからこそ生まれる愛。未来は、違うからこそ創造され、違うからこそ継続してゆくと思うのです。

 

これから先の未来、我々に求められている事は何でしょうか?私は、これからも、頭の良い頭脳を使って共存共栄の精神で、動植物の存在を大切にする事こそに、我々、人間特有の存在意義があるように思えるのです。また、これこそが人間の役目だと思うのです。