「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

まだ数年は続くと思っていた、愛猫「ぺい」との平凡な日常。
しかし、その後の誤診と突然の癌宣告...。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見た記録です。

八月二十三日(土)

昨晩は寝るのが遅かったので、いつもより少し遅めの起床になった。真っ先にぺいの姿を探した。良かった。まだ生きてる。でも、異様な恰好は、昨晩と何一つ変わっていない。ただ、まだ、ぺいの命は、自分と同じ、この世にある。だからこそ、一秒一秒というかけがえのない大切な時間を、今日も一緒に刻めているという事が、本当に心の底から嬉しい。でも、やはり気になるのは、おそらく今日明日の命という事。癌という事が分って半年か・・・。私は、そんな事を思いながらキッチンに立っていた。キッチンは、ぺいがへちゃげて、うつ伏せになっている場所から二メートルほど。そんな時、時間は、午前十時半頃、ふと動くものを横目に感じた。顔を向けてみると、ぺいが尻尾をパタンパタンと大きく振っている。あれ?どうした?このところ尻尾なんて全然振らなくなっていたのに・・・。もしかして、もしかすると、少し元気が出てきたのかな?もしかして、元の普通の状態に戻りたいのかな?そんな意思表示なのかなと思った。それで、思いがけない展開に嬉しさが込み上げてきた。もし、そうであるなら、あともう一週間、次の休日まで、なんとか生きていてほしい。食事の注入だって、また、少し再開しないといけないな・・・。そんな期待に胸が膨らんだ。そこで、ぺいの横に座ってみる。もう、こんな状態で丸一日。もしかして、結構前から普通の状態に戻りたかったのかもしれない。でも、ここまでへちゃげた状態になってしまったら、絶対に自力では元の状態に戻れないだろう。だから、その事を私に何とか伝えたくて、尻尾で意思表示をしているのだろうと思った。そこで、ぺいの前脚の両脇の下に私の手を入れて、自力で立てるぐらいの高さにぺいの身体を持ち上げてみた。少しでも状態が回復していて、本当に立ちたいという意思があるのであれば自力で立つだろうと思った。よっ!あれ?いざ持ち上げてみても、なぜか全く立とうとはしない。それであれば、このまま持ち上げていても仕方がない。再び、持ち上げた身体をゆっくりそのまま床に下ろした。すると、また、下ろすにしたがって、ぺいの両脚は直角に曲がり、結局、元のへちゃげた状態に戻った。やっぱり駄目なのか?立ちたいという意思はあっても、まだ、実際に立てるほどには回復していなかったのか?

 

それにしても、今朝、起きた時には、ぺいと、この世で一緒に過ごせるのは、今日明日ぐらいまでかと思っていた。でも、もしかしてと期待を抱けた。それにしても、その分、結果的に立てなかったという事は、精神的に落差が大きかった。やっぱり、今日明日の命なのか?やっぱりダメなのか?もう、本当に死んじゃうのか?まだ、一緒にいたい。別れたくない。そんな思いが頭の中を過ぎった。そして、急に悲しみが怒涛のように込み上げてきた。「ぺいちゃん、なんでこんなになっちゃったんだよ」「なんで癌なんかになっちゃたんだよ」今まで、無意識に心のどこかで我慢しながら溜め込んできたものが、再び、堰を切ったように溢れ出てきた。でも、そんなもの、今まで何度も散々涙で洗い流してきたはずだった。それなのに、それなのに・・・。「ぺいちゃん、ごめんな」「助けてあげれなくてごめんな」「本当に本当にごめんな」「痛いよなぁ」「ぺいと別れたくないよ」「散々、苦しい思いをさせてごめんな」「まだ、ずっと一緒に居たかったよな」へちゃげているぺいの真上で思いっきり声を荒げて泣いた。どれぐらい経っただろうか?どれぐらいの時間泣いていただろう?多分、三十分ぐらい号泣していた。ふと、我に返って目を開けてみると、自分の流した涙が幾つも粒になって床に落ちている。その時だった、ぺいが、少しだけ私の方に頭を向けてくれた。今のぺいは、昏睡状態ともいえる状態。それなのに、まさか、何か反応を返してくれるなんて思いもしなかった。そもそも、頭を少し動かすだけでも、渾身の力が必要なはずだ。それなのに、それなのに・・・。ぺいちゃんは本当に最後の最後まで・・・。「ありがとう」「ありがとう、ぺいちゃん!」「本当にありがとう」ぺいの事が愛おしくて愛おしくて胸が締め付けられる。でも、もう一緒に過ごせる時間は本当に残り僅か・・・。また、そんな現実が直ぐ頭を過ぎる。そうしている内、私は、無性にぺいが我が家にきたばかりの頃の写真を見たくなった。あたり前だけど、十一年前のぺいの姿は初々しくて元気な様子ばかりだ。それらの写真を見ていると、その一枚一枚、その全てに写真を撮った当時の気持ちが鮮明に蘇ってくる。それにしても、つい最近の事のように思える。十一年という年月は過ぎてみれば本当に早かった。私は、それらの写真の中から選りすぐった一枚をぺいの視線の先に置いてみる。なぜなら、若かりし頃の姿を見る事によって、我が家に来てからの思い出を旅立つ前に一つでも多く思い出してほしかったのと、若い時の漲るパワーを、本当に少しでも獲得して元気を取り戻せるものなら取り戻してほしいと思ったからだ。ただ、やはり写真を置いてみても、相変わらず瞼は開いたまま。きちんと写真を認識出来ているのだろうか?それは分からない。とりあえず写真は、ほんの少しでも何か良い事に繋がると良いなと思い、そのまま置いておく事にした。

 

それにしても、もう二度と立てそうにない。このままだと、いつ死んでしまっても不思議ではない。以前から何度も情報収集をしてきたけど、もうさすがに、火葬場の住所などについて、きちんと最終確認しておかなければと思った。そう言えば、動物の葬儀について色々と調べていると、動物の葬儀には、合同葬や個別葬、立会葬などの種類がある事が分かった。また、立会葬でも移動火葬車が自宅近辺まで来てくれるものもあれば、こちらから火葬場まで出向くものまである事が分った。もちろん、大切なぺいの火葬は、絶対に人間と同じように火葬場で、そして、立会葬で行いたいと思っていた。そして、そうした条件を満たしてくれる火葬場が、自宅から意外と近くにある事までは既に確認済だった。そこで、あらためて、そのチェックしていた火葬場のホームページを訪れてみる。それで、もう一度、正確な住所や葬儀の申し込み方法を確認した。すると、火葬の申し込みには、電話と、ホームページ上から申し込むという二通りの方法があって、ホームページからだと十%割引と書いてある。私は、もし、これから先、ぺいに何かあった時には、安くなるホームページの方から申し込もうと思った。正直、きちんと本当に受け付けてくれるのか少し不安だったけど、申し込んで少し待って何も連絡がなかったら、きっと電話しても割り引いてくれるだろうと思った。ちなみに、この時、時刻は、ちょうど正午頃だった。私は、パソコンデスクの椅子に座ってホームページを見ていた。この時、ぺいは、私の背後にいた。ふと、ぺいの事が気になって振り返ってみても、まだ、何一つとして変わりない。そういえば、ぺいの視線の先に置いた写真は、もう三十分程そのままだ。残念だけど、写真では何も変化がなさそうだ。このまま置いていても仕方がない。とりあえず写真は回収した。そして、またパソコンの前に座った。それにしても、パソコンの画面を見ていても、頭で考えている事は、常にぺいの事だけだ。大丈夫か?峠は越えただろうか?ついさっきまでは、今日明日の命と思っていたけど、もしかしたら、もう少し生きていてくれるかもしれない。火葬場の情報を確認しつつも、そんな希望も心の中に少し芽生えつつあった。今日は、久々に尻尾を大きく振ってくれたし、私が泣き終わった時、頭を少し私の方に向けてくれたりもした。そんな変化や出来事が凄く嬉しかった。そう言えば、今夜で丸二日間、食事を抜いた事になる。これ以上、食事を抜くと別の意味で命を危険にさらす事になる。夜、久しぶりに少しだけ食事を注入しよう。そう思った時、後方から変な音がした。その音の正体、それは、ぺいの声にならない声だった。時間は、昼の十二時半頃。振り向いて見ると、また、ぺいが前後の脚をググっと力ませている。やっぱり、へちゃげた恰好のまま辛くて何とか立ちたいのか?でも、前みたいに脇の下に手を入れて身体を持ち上げて、結局、自力で立てなかったら、無駄に負担を掛けてしまう。どうしょう?少し考えて、出来うる限りの最善策として、立とうしている事のアシストに徹する事にした。具体的には、私が、ぺいの身体の上に覆いかぶさるような恰好になって、力ませているぺいの前後の両脚を少しでも踏ん張りが利くように、私の両腕で挟み込んでみるという方法だ。そうして、ぺいが前後の脚をググッと力ませた時、腕を内側に狭めてみる。駄目だ。やっぱり立てない。もう、立ちたいと思っていても立てないのだろうか?

 

そして、それから、さらに、三十分程、経った時だった。突然、後方から今までに聞いた事のない奇声が聞こえた。それは、紛れもないぺいの声。私は、びっくりして勢いよくバッと後を振り向いた。ぺいの下顎は完全に失われて、舌も床にあたって百八十度折れ曲がっている。そんな状態で発した声。声になっていない声。ぺいは、再び両脚を力ませている。でも、今度は何度も、なぜか、とても強く力んでいるのが分かった。何だ?これは、今までの力み方とは明らかに違う。あっ!この時、やっと脚を力ませていた理由が理解出来た。それは、決して立とうとしていたのではなく、痛くて力んでいたのだ。その前に尻尾も振っていたから、私は、てっきり少し元気になってきたのだとばかり思っていた。とんだ勘違い。青天の霹靂だった。それにしても、今、目の前で、もだえ苦しんでいる様子は、完全に常軌を逸している。これは本当に危ない。もう、これは危篤だ。容態が非常に切迫している事を理解するのに、時間は必要としなかった。そうだ、母に連絡しないと。ずっと、二人三脚で一緒にぺいの面倒を見てきた。母にもぺいの最期に立ち会ってもらわないと。でも、ぺいの様子は、いつ死んでしまってもおかしくない。もしかしたら、母に電話している間に死んでしまうかもしれない。それほど切迫した状況。ぺいの最期は、一秒たりとも目を離さずに見守っていてやりたい。そうしないと絶対に後悔する。とにかく、そう思った。だから、母への連絡は、一旦、中止した。

 

そして、そのままぺいの様子を見守っていると、今度は、両脚だけでなく全身にも力が入ってきた。それでも、恰好は相変わらずへちゃげたままだ。だから、身体は殆ど動かせない。それなのに全身が激しく動きだした。そして、表現しがたい苦痛を訴えるような喉からの奇声が続いた。もうこれは、完全に悶え苦しんでいる。私は、何も出来ない。ぺいが苦しむ様子を見ているだけ。それが、精一杯。そして、一瞬たりとも目を離せない緊迫した状態が続いた。どれほど時間が過ぎただろう。それは、初めに奇声を発してから三十分程経過した時なのではと思う。呼吸で動いていたはずの腹部が動かなくなったような気がした。あれ?もしかして?いや、気のせいだ・・・。あまりに苦痛が続いて少し呼吸が弱くなってしまったか?腹部近辺を注視しながら見続けていた。すると、腹部の上部のあたりから胸の方にかけて、波打つように筋肉が、大きく二度三度、間隔を置いて動いた。良かった。大丈夫だ。まだ大丈夫だ。動いている。でも、そう思った直後だった。頭の先から尻尾の先まで、なぜか一切、動きという動きが感じられなくなった気がした。えっ?今、何が目の前で起きているのか。私は、頭の中が混乱して状況を理解出来ずにいた。まだ心臓は止まってないよな?さっき、波打つように筋肉が動いていたし・・・。だから、まだ心臓は動いているよな?まだ、大丈夫だよな?大丈夫なはずだよな?そんな不安に襲われた。そして、その瞬間、頭の中が真っ白になった。あれ?でも、動いてない?もしかして・・・。えっ、動いていない?そうだ!瞼は目に近いから瞼を触ってみれば、その反応で生きている事が確認出来る。私は、ぺいの瞼に手を当ててみた。えっ、違う・・・。一瞬で瞼に手が触れた瞬間に分った。石のように硬い。今までとは違う何か別のものを触ったような感覚。とてつもない違和感を手に感じた。えっ、死んでる・・・。も・・・、もう死んでる・・・。そのまま手で瞼を閉じようと思った。でも、皮膚が硬直している。「おい、いつ死んだんだよ!」「ぺい」「おい、ぺい!」「いつ死んだんだよ~お前よぉ~」時計を見てみると十三時半。ぺいが・・・、ぺいが死んだ・・・。「ぺいちゃん・・・」もう二度と動かない。そんな死という現実。良く頑張ったな。やっと楽になれたな。安らかに眠ってほしい。そう思うことしか出来なかった。私は、再び、瞼を閉じてみようと思った。でも、どれだけ力を入れても閉じられない。もしかして、ずっと瞼を開けたまま丸一日程過ごしていたから、それで筋肉に癖がついてしまったのか?それにしても、まだ息を引き取ってから一分程しか経っていないはずだ。それなのに、どれだけ力を入れても閉じる事が出来ない。あの世に行ったのだから、もうこの世なんて見ないで目を閉じて安らかに眠ってほしい。だから何とか瞼は閉じてやりたかった。でも、このまま閉じる事の出来ない瞼ばかりに気を取られている訳にもいかない。もう、死後硬直が始まっているのだ。とにかく前後両脚を広げたムササビのような恰好で硬直させる訳にはいかない。そんなのかわいそうだし、棺にも入らなくなってしまう。私は、ぺいの身体を床からゆっくり持ち上げて、左右の両脚を重ね合わせるように折り畳んだ。これで、猫が普通に横を向いて寝る時の恰好になった。今日は土曜日。週明けからは、また一週間仕事がある。もし、ぺいが死んでしまったら、火葬は休日中に終わらせたいと思っていた。それで、私は、急いで例の火葬場のホームページにアクセスして、取り急ぎ日曜の十五時から火葬を希望する旨の予約を済ませた。そして、母に電話した。「ぺいが死んだ」「え?死んじゃったの?」「いつ?」「今」「え、今?」「うん・・・」「分かった、じゃあ、今からそっちに行くから」「分った・・・」ぺいの命が短い事は覚悟していた。だけど、現実を目の前にすると、ぺいか死んだという事を伝える為の必要最低限の言葉を並べるだけでも凄く口が重かった。でも、ひとまずこれで火葬の手配も母への連絡も終わった。この後、母が到着するまでには、最低でも三十分は掛る。私は、あらためて動かなくなったぺいの前に座った。そして、ぺいに声を掛けた。「ぺい、お前は、本当に最後の最後まで良く頑張ったな」「やっと、楽になれたな」「ゆっくり眠れよ・・・」そんな言葉を何度もぺいに届けた。でも、本当は、まだまだ生きていたかったはずだ。「まだ本当は生きていたかったよな・・・」「ぺい?」そんな事も聞いてみた。ぺいとは、一緒に奇跡を信じながら頑張ってきた。それなのに・・・。まだ、一緒に暮らしていたかった。まだ、別れたくなんてなかった。まだ十一歳じゃないか。人間で言えば還暦を過ぎたばかりぐらいじゃないか。それなのに・・・。再び、悲しみが込み上げてくる。ほんの一時間半程前にも声を荒げて泣いたばかりだった。あの時には、もう散々泣いたから、これ以上、涙なんて絶対に残ってないと思っていた。でも、もう二度と動かないぺい・・・。痛々しくてボロポロの身体になったぺい。そんなぺいが目の前にいるかと思うと、再び、抑えようのない悲しみが怒涛のように込み上げてきた。「ぺい~、戻ってこいよ」「どうしてそんなに早く死んじゃうんだよ」「ぺい、ごめんな」「痛い思いをさせて、ごめんな」「本当に痛かったろ」「痛かったよな」「辛かったろ」そんな事を何度も口にしながら声を荒げて泣いた。きっと、近くに人がいたら泣き声と混じり合って何を言っているのか分からなかったに違いない。もしかしたら、泣き声だって玄関の外に漏れていたかもしれない。とにかく、我を忘れて泣いた。こんなに大泣きしたのは生まれて初めてだった。

 

そして、どれほど時間が経ったのだろう?時計を見てみると、二十分程泣いていたようだ。そう言えば、まだ、母は到着していない。私は、ぺいの身体を死に化粧ではないけど綺麗にしようと思った。ぺいの身体には涎や血液などがこびりついている。天国では、綺麗な身体で過ごしてほしかった。「ぺいは本当に綺麗好きだったからな~」「綺麗にしような」「ぺいちゃん」やさしく声を掛けながら手や足を拭いてやった。元気な頃は、猫だからあたり前だけど、暇さえあれば自分の舌で身体を舐めていた。でも、癌になってからは、そんな猫として当たり前の事すら叶えられなくなった。どんな気持ちで過ごしていたのだろう?ちなみに、癌になって一番汚れが酷かったのは前脚だった。だから、時々、風呂場に連れて行って、シャワーでぬるま湯を掛けながら洗ってやった。だけど、この二週間程は、本当に辛そうで身体を持ち上げたり、まさかシャワーを掛けたりなんて絶対に無理という状況だった。あっ、そうだ!ふと、ぺいの口の中が気になった。それは、何だか分らない正体不明のものが口の中にあって、棒状で口の奥の方から突き出ている。この際、口の中を徹底的に観察して見ようと思った。今までも機会を見つけては何なのか知りたくて見てきたけど、生きている時には、どうしても観察しづらくて分からなかった。でも、それが、何だったのか、やっと分かった。それは、右下の顎の骨。分かってさえしまえば、どうして今まで分からなかったのか不思議だ。でも、その骨の形は、半分以上が癌細胞に冒されていたから、顎の骨の形状からは、かけ離れていたし、癌に冒された影響で酷く変色していたから、まさか顎の骨なんて思わなかった。

 

そう思った時、またしても、白いものが視界に入った。床に一匹。また蛆虫だ。「こんちくしょう」この数日間、散々捕まえたのに、まだ居たのか。「本当に、いい加減にしてくれ」発狂した。でも、この蛆虫は、今まで捕まえてきた蛆虫とは違って瀕死の状態に見える。多分、宿主が死んだから命からがら脱出したんだろう。それにしても、ぺいは、もう死んだというのに・・・。もしかして、まだ蛆虫が居るのか?もしそうだったら、とんでもない。そう思って上顎にある穴の中を見てみる。すると、また一匹、穴の中から出てこようとしている。「本当にいい加減にしてくれ!」「ふざけんじゃねぇ!」直ぐピンセットを用意して摘み出した。もう一度、穴の中を見てみる。すると、また白いものが見えた。「こんちきしょう!」「もう、いい加減にしてくれ」そして、さらに一匹を摘み出した。もう一度、穴の中を見てみる。まだか?これで大丈夫か?さすがにもう大丈夫そうだ。結局、死んだ後に、また三匹も摘み出した。「本当に最後の最後まで・・・」それにしても、この三日間で捕まえた蛆虫を全部足すと全部で何匹になるのか計算してみた。最初に十二匹、昨日が五匹、そして、今日が三匹。足すと全部で二十匹にもなった。それも、全部一センチ大の大きさ。上顎の狭い空間に二十匹もの蛆虫がいたのだ。一体、どこに、そんな空間があったのか?とにかく本当に冗談じゃない。もう、本当にいい加減にしてくれ。でも、これでやっと、蛆虫は全部退治出来たはずだ。火葬が蛆虫と一緒だなんて、それこそ絶対にあり得ないと思った。

 

そうして、その後、私は、気を取り直して、ぺいの身体拭きを再開する事にした。それにしても、固くこびりついた汚れは易々とは落ちてくれない。だから、水を汲んできて汚れをふやかして、時間を掛けながら落としてゆく。そして、顔の頬を拭こうとした時、思わず手が止まった。上顎の口の周りの毛が擦れて殆どなくなっている。そういえば、ここ数日は、フローリングの床面に上顎が接している事が多かった。本当に予期しない場所までボロボロになっていて痛々しい。そう思った瞬間、ガチャと音がした。玄関のドアを開ける音。母だ。時計を見ると、二時十五分。電話をしてから約四十分だから、直ぐに身支度をして駆けつけてくれたようだ。そして、母の目にも動かないぺいの姿が映った。母も心の準備をしながら駆けつけてくれたに違いない。だけど、実際に動かなくなったぺいを目の前にするとショックを隠せない。「ぺいちゃん」「ぺいちゃん・・・。」ぺいの名前を何度も呼んでくれている。

 

それから間もなくして電話が鳴った。火葬場からだった。話によると、ホームページ上から予約を希望していた十五時からの火葬は、既に予約で埋まっているとの事。でも、午前の十時か午後の十三時半からであれば空いているそうだ。出来る事なら少しでも遅い時間にして、ぺいと一緒に過ごせる時間を一分一秒でも多く確保したかったけど仕方がない。私は、「では、十三時半からでお願いします」と答えた。すると、当日は、火葬前の手続きがあるので、火葬時刻の二十分程前に到着してほしいとの事。家で一緒に過ごせる時間は、さらに短くなるのか・・・。まぁ、こればっかりは仕方がない。とりあえず、何はともあれ、仕事が休みの間に、火葬を終えられる目途がついて何よりだった。火葬場との電話を終えた私は、直ぐ母に明日のスケジュールを伝えた。まず、火葬場に向けて出発する時刻は、余裕をもって到着したいので十二時過ぎにしたいという事、そして、最後のお別れの時間を考えると、火葬場に向かう一時間程前に、こちらに到着すれば良いのでは?という事を伝えた。母は、ぺいの身体を撫でながら「うん、分った」との事。そして、一呼吸おいて、「病院へ連れて行くまでは、一緒に暮らしてなかったし、だから特別どうって事なかったけど、病院へ連れてゆくようになったら、どんどん情が移っちゃって仕方なかったよ」と、ぺいに対する気持ちを話してくれた。母は、ぺいが病院へ通院させる必要がなくなってからも、ほぼ毎週、必ずといって良いほど、ぺいの様子を見に会いにきてくれていた。それも、ただ、来るというだけではなかった。ぺいを気分転換させてやりたい一心で蝉を捕まえてきてくれたり、生きているうちに少しでも美味しいものを食べさせてやりたいと思って、やわらかく湯通しした肉を用意して持ってきてくれたりもしてくれていた。私は、母の言葉を聞いて、ほんの短い数か月という期間ではあったけれど、凄く沢山の思い出が頭の中に浮かんできた。それと、母は、「昨日はぺいの横で、ずっと歌を歌ってあげてたんよ」という事も話してくれた。何の歌かは聞かなかったけど、きっと、ぺいの名前の入った子守唄ぽい歌だろうと何となく思った。ありがとう。ぺいも、最期を迎える前に母から励ましの歌を聞いて元気づけられた事だろう。そして、そう思ったら、また思わず涙が溢れそうになった。いい歳した大人が、まさか母の前で涙を見せる訳にはいかない。このままでは拙い。私は、何とか気を紛らわせる方法を探した。そうだ。壁には、ぺいの涎が四方八方に付着している。ぺいの亡骸を見ないように、ひたすら壁を見ながら掃除をしていれば少しは気が紛れる。あと、私が掃除をしていれば、母にも、ぺいとの別れの時間を存分に作ってあげることが出来るので、一石二鳥だと思った。そこで、ぺいの身体拭きは母に引き継いで、私は、部屋の中の拭き掃除を始めた。

 

それにしても、掃除で絶え間なく手を動かしつつも頭の中では違う事を考えていた。ぺいが苦しんで息絶えた時の様子が何度も蘇ってくる。ぺいは、凄く悶え苦みながら死んでいった。時間にすれば、三十分程だったかもしれない。でも、ぺいの苦しみは、そのまま自分自身の苦しみで、ぺいの苦しむ様子を見ていた時間は、苦痛以外の何物でもない拷問のような時間だった。私は、ぺいが息絶える直前、ぺいの身体の上に覆いかぶさるように死神が取り付いて、ぺいの身体と一体になっている生きようとする意思の塊のようなものを容赦なく剥ぎ取っていったような気がした。もしかしたら、その意思の塊のように感じたものが、目には見えない魂そのものだったのかもしれない。とにかく、ぺいは、苦しんで苦しんで、もがき苦しんだ。そして、喉から声にならない声のようなものを何度となく出していた。その苦しむ様子と声にならない声は、「もう、その身体はボロボロだからいい加減諦めろ」「もう、お前は、この世での使命は充分果たした諦めろ」という死神からの説得を聞き入れないで、必死に抵抗しているように思えた。とにかく、あの時の様子は頭にしっかり残っている。そういえば、つい最近まで、「頑張れ、頑張れ」「みんな頑張ったんだから、ぺいも頑張れ」といった事をぺいに伝えてきた。だけど、今は違う。「本当に最後の最後まで良く頑張った」「ぺいは本当に本当に凄く頑張った」「みんな頑張ったけど誰よりもぺいが一番頑張った」「世界で一番誰よりもぺいが頑張った」ぺいの頑張りを心の底から褒めてあげたくて、そんな言葉が次から次へと出てくる。すると、母も直ぐに私の気持ちに共感してくれて、さらに、母と一緒に、ぺいの頑張りを何度も繰り返し褒めた。褒め続けた。そして、ぺいの事を褒めたり、母と、ぺいとの思い出話をしていると何度も涙が溢れそうになった。でも、そんな時は、涙声になりそうだったから、気持ちが落ち着くまで何も言葉に出来なかった。だけど、それも想定内で、拭き掃除に集中しているフリをして間を繋いだ。だけど、掃除中、母との会話以外の事でも涙が出そうになった。それは、普段、目につかないベッドの隙間を覗いた時だった。何と床面に大量の血痕があったのだ。その血痕は、完全に乾いていたけど、かなりの血の量だという事が想像出来た。癌の痛み、そして、こんなにも大量出血して、ぺいは、癌になってから、どんなに辛い時間を過ごしてきたのだろう・・・・。想像するだけで、途端に涙が溢れそうだった。そもそも、胃瘻までつけて存命させた事が、本当に正しい選択だったのか?決して後悔はなく正しい選択だったと思ってきたけど、少なからず、再び、そんな感覚に襲われた。そうして、母がきてから一時間半ほど経った頃、もうどこにも掃除するところが見当たらなくなったので、拭き掃除を終える事にした。母は、まだ、ぺいに声を掛けながら身体を拭いたり撫でたりしてくれている。そんな母を見て思った。ぺいを火葬にする前に、母にも、ぺいとだけになれる時間を作ってあげたい。そういえば、何か他に準備しておくべき事はないだろうか?そうだ。棺の準備は出来ているけど、まだ、棺の中に入れる生花を買っていない。本当なら、今夜、少し出掛ける用事があるので、その時、ついでに買ってこようと考えていたけど、急遽、時間潰しも兼ねて、先に生花を買ってこようと思った。そして、花を買いに行ってくることだけを母に伝えて、私は、花屋へ出掛けた。

 

花屋へ向かう途中、買う花は、やはり少し拘りたいなと思いながら自転車をのんびり走らせた。そもそも、猫という動物に添える花だから形式のようなものには捉われずに自由に決められる。という事は、私のぺいに対する思いを花に込める事が出来るという事だ。だから、ぺいの死は、とても悲しいけど、ありきたりな仏花にするのではなくて、我々に凄く愛された特別な猫に相応しい花にしたいと思った。それと、ぺいの棺を用意している際、あらかじめ心に決めていた花があった。それは、百合の花だ。なぜ百合かというと、それは、何となくだけど、百合独特の白くて大きい優雅な雰囲気が大切な魂に添える花として最も見合う気がしたからだ。だから、百合の花は、とにかく出来るだけ大きいものを選びたいと思った。そして、そんな事を考えながら自転車を走らせていたら花屋に到着した。花屋の店頭には、仏花が沢山並べてある。時間的には、ゆっくりしたかったので、ひとまず一通り仏花も見てみることにした。でも、やはり、仏花は、人間向けという気がする。それと、ぺいの旅立ちには何だか地味過ぎて、ちょっと違う気もしたし、形式的に仏花を選択してしまうと、私のぺいに対する思いは何も反映出来ない事になる。やっぱり、ぺいには、地味過ぎず、派手過ぎず、そんな花が似合う。仏花を見た上でも、そう思えた。それで、まずは、白い百合と明るめの花をチョイスして、それと、バランスを取る為に、仏花の中で何か一番意味のありそうな菊の花を買った。そして、それらを自転車の前かごに入れてみる。すると、カゴ一杯になった。これで、棺の中をお花畑のように花で一杯にしてやれる。ぺいという猫の旅立ちに相応しい葬儀をしてあげられる。そう思うと、凄く嬉しかった。そして、そんな思いを胸に自転車を走らせた。家に到着して、母の様子を見てみると、ぺいとのお別れは、充分に出来た様子だった。

 

さぁ、次は、ぺいが快適に安らげるように棺のセッティングだ。ひとまず、数日前にインターネットで調べた方法を参考に作業を進めることにした。まずは、昨夜、自分で作った棺の底にポリ袋を敷いて、その上にタオル、保冷剤、タオルと重ねて、最後にバスタオルを敷いてみた。もう、ぺいの身体は、すっかり綺麗になっている。そして、母も見守る中、ぺいを、ゆっくり抱えて棺の中に寝かせてみた。「これで綺麗な身体で天国に行けるな」「綺麗な身体で過ごせるな」「良かったな」頭の中で棺の中のぺいに話しかけた。そして、敷いているバスタオルの残りの半分を安らかに眠れよと思いながら、ぺいの身体の上に掛布団のように被せた。そして、バスタオルの上に、買ってきた花を一本一本並べてゆく。でも、花を並べていると、ぺいが花や葉っぱで埋もれて見えなくなりそうになった。これは、ちょっと買いすぎたかな・・・。棺の中に買ってきた花が入りきらないので、花の茎を短く切ったりして、買ってきた花の全てを棺の中に納めた。花の一本一本が、天国に行っても幸せに過ごしてほしいと思う気持ちそのものだった。そして、一本一本の花を、ぺいありがとう、という気持ちを込めながら並べた。正直、ぺいは猫だから、花より団子で全く花になんかに興味はないだろう。だけど、天国に行ったら、沢山の花で埋め尽くされた気持ちの良い世界で、他の動物たちと楽しく幸せに暮らせよ。そう思った。

 

ふと、外を見てみる。もう、日が暮れそうだ。そろそろ母は帰るようだ。「じゃあ、また明日、気をつけて」「うん、分った」「もう、この前みたいにぺいは見送ってくれないね・・・」つい先日、ぺいが母が玄関から出て行くのを見送っていた姿が蘇ってくる。もうぺいは動かない。いくら願っても・・・。もう二度と、あの時と同じ姿を見る事は出来ない。もう、二度と・・・。

 

今日は、ぺいと過ごせる最後の夜になる。私が寝るベッドの直ぐ横に、痛みや苦しみから解放されたぺいが安らかに眠っている棺を、私と頭の方向が同じになるように並べて、「ぺいちゃん、一緒に寝ような」「ぺいちゃん、おやすみ」そんな言葉をぺいの耳に届けるように意識して伝えた。ぺいと一緒に寝られる。至福の時間。でも、これが最後になる。そんな幸せを噛みしめながら、部屋の明かりを消してベッドに入った。そして、隣で寝ているぺいに気持ちを寄せながら目を閉じた。

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