「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との戦い~

2014年3月 愛猫「ぺい」に、突然、癌が宣告されました。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見て頑張った記録です。
ありのままの事実を、感じた事を全て残しておくことにしました。

猫を人と同じように愛せる理由

 それにしても不思議だ。冷静に考えてみれば、どうしてこんなに悲しいのか?命に永遠がないことなんて分かっていた。だから、少しぐらい心の準備もしていた。それと、癌で旅立ったから突然の別れでもなかった。大体、そもそも旅立ったのは人ではない。猫だ。もし、どんなに悲しくても、それが、人に対してであれば、特に疑問を感じることなどなかったように思う。どうしてこんなに猫の旅立ちが悲しいのか?それは、もちろん愛していたからに他ならないし、悲しみの深さは、愛した深さの副作用のようなもので仕方ないのだと思う。でも、そんな悲しみが同じ人間に対する感情だとすれば、人を愛することには、自分の子孫を残すことに繋がるという側面もあるし、例え子孫を残すことに繋がらなくても、悲しみは、ごく当たり前の事として特に疑問すら感じなかったように思う。しかし、これほどまでに辛い猫を失ったことに対する悲しみは、どのように理解して、どのように消化してゆけば良いのか?悲しみのストレスで自分自身の命を失ってしまうのなら仕方ないと思えたし、それで命を落とすなら本望とまで思ったのだ。でも、悲しみと辛さから、どうにかして早く脱したかった。だからこそ、私は、これほどまでに悲しい理由と、この悲しみの意味を知りたかった。そして、きちんと理解出来れば、悲しみや辛さを、少しでも上手く受け止められる、そんな気がしたのだ。

 そもそも深い悲しみの理由を考える糸口として、人と猫との違いは何かについて考えてみた。まず、一番分かり易いのは外見だ。次に、その他の違いを考えてみると、人は言葉を話したり文字を扱うことが出来る。たから、頭脳も明確に違う。でも、改めて根本的に何が違うのかについて考えてみても、どうしても、この二つしか思いつかない。そこで、外見の違いと頭脳の違いに焦点を絞って考えてみることにした。まず、もしあの世が存在すると仮定して、そうしたら、あの世ではどうか?外見の違いはどうだろう?この世では、確かに外見は異なっている。でも、もちろん、あの世に肉体を持ってゆくことは出来ないから、外見の違いは、この世だけに限った、それも些細な違いに過ぎない。もう一つの違いである頭脳についてはどうか?頭脳の違いは、脳細胞が活動して得られることの差だ。それは、頭脳の違いによって、人は人なりに、猫は猫なりに、色々なことを感じたり考えながら生きているということを意味している。もちろん、頭脳が優れているほど多くの幸福感を感じられるという訳でもないように思う。それと、そんな脳細胞だって身体の一部だから、頭脳の違いも、あの世に持ってゆくことは叶わない。そうすると、あの世では、人と猫には、全く違いがないことになる。結局、人間と猫の違いである外見や頭脳は、この世における本当に些細な違いに過ぎないのではないだろうか?しかし、異論を唱える人もいるはずだ。なぜなら、あの世に行くとき、命は肉体という物質には依存しない目には見えない魂というものに変わるという考え方もあるからだ。そして、そもそも人と猫の魂は似て非なるもので異なるという価値観もある。いずれにせよ、これらは、我々に備わっている五感では認識出来ないことなので、幾ら議論を尽くしても妄想の域を脱しえない。ただ、個人的には、人と猫の魂は異なるという考え方は、人間の自己愛に満ちた人間に都合の良い考え方なのではと思えてならない。なぜなら、どんな命であっても、目に見えない命そのものの尊さ自体に全く差などないはずと思うからだ。そして、このように命というものを捉えると、もし命が魂というものに変わったとしても、その魂にも差などないように思える。だから、私は、人と猫の魂そのものに全く違いはないと思ったし、人と猫の違いの本質は、この世で全うする役目が違うだけだと思うようになった。ちなみに、我々人間は、基本的に人間として生まれてきて一番幸せで良かったと思っている。だけど、実は、猫だって、猫の価値観によって猫に生まれてきて一番良かったと思っているのではないだろうか?ようするに、自分の境涯に幸せを感じるかどうかは、自分自身の心で決めるものだから、人と猫の役目の違いによって喜怒哀楽の量や質に違いこそあっても、人と猫のどちらが幸せかなんて決めることは出来ないのだと思う。

 さて、ここで、そんな猫を、どうして人と同じように愛せるのかについて考えてみたい。まずは、人と猫との違いと同じように、我々、人間同士での違いを考えてみることにした。最初は外見の違いだ。人間同士だって性別によって外見が異なっている。では、頭脳の違いについてはどうか?頭脳だって人それぞれに記憶力や思考スピード、着眼点するポイントや価値観は人それぞれに異なっている。そして、猫は人の言葉を話すことは出来ないけど、同じ人間同士であっても自分の意思や気持ちを上手く表現出来ないこともあれば、正直に表現出来ないことだって山ほどある。もちろん人間同士の違いは、人と猫との違いに比べれば些細なことなのかもしれない。しかし、我々人間同士に視野を狭めて考えてみても、人と猫の違いと違いの基準そのものは同じだということが分かる。でも、我々人間同士であれば、その違いを基本的に人それぞれに生まれ持った強みや弱みだと認識して助け合いながら生きている。違うからこそ生まれる助け合い。違うからこそ生まれる思いやり。そして愛。違うからこそ作られる未来なのだと思う。そこで、そんなことも踏まえて、もう一度、猫という存在について考えてみたいのだけど、その前に蚊という生き物に対して、猫に対する思いと同じ思いが生まれるだろうか?そんなことはないはずだ。でも、そんな蚊だって人と猫の違いと同じではないだろうか?外見と頭脳が違うだけなのではないか?それなのに、なぜ、人間同士や猫に対する思いと同じ思いが蚊に対して生まれないのか?そんな事も含めて考えてみると、思いやるという気持ち、愛するという気持ち、そんな気持ちの源泉は、例え無意識であっても自分に何か精神的にプラスの作用がもたらされているという結論になってくる。では、猫という存在は、一体、人間にどんな精神的プラスをもたらしているのか?そもそも人間という生き物は、他の生き物より頭脳が圧倒的に優れていることが一番の特徴なのだと思う。でも、それが故、圧倒的に劣っていることがある。それは、過去のことを反省したり未来のことを心配したりしてストレスという不幸を自らの力で生産してしまう生き物だということだ。これは、頭脳が優れているがこその特徴であって人間の宿命なのだと思う。だから、人間は、そんなストレスを和らげてくれる存在や出来事を常日頃から欲していて、そんなストレスを和らげてくれる存在。それが、猫だったりする。だから、我々は、そんな猫だからこそ、猫の感情を察してあげたくなるし、猫に喜んでもらえると嬉しくて幸せな気持ちになれるのだと思う。そして、だからこそ、猫を人と同じように愛せるのだと思う。

 我々は、決して一人では生きられない。もちろん、地球上に人間だけでも生きられない。もし、地球上に人間だけが生きていても意味がない。なぜなら、我々人間は、数知れない動植物などの存在があってこそ生きられているし、それら全てを頭の良い頭脳を使って共存共栄の精神で大切にすることこそに存在意義があるように思えるからだ。あらためて、猫だけでない万物に感謝の気持ちを持ちたい。