「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

まだ数年は続くと思っていた、愛猫「ぺい」との平凡な日常。
しかし、その後の誤診と突然の癌宣告...。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見た記録です。

八月二十二日(金)

起床と同時にぺいの姿を探した。良かった。まだ生きている。ただ、フローリングの上には、血溜まりが三か所もあった。まだ昨晩から始まった酷い出血が止まっていない。まずは、血溜まりを拭き取って水場の水を取り替えた。それと、朝食の注入については、昨日の夜を最後に暫く中止する事にした。それは、とても食事の消化どころではないように思えたからだ。今日は金曜日。今日さえ仕事に行けば、明日からは、土曜、日曜と、二日間ずっと一緒にいられる。本当なら今日も家に居たいところだけど仕方ない。それにしても、良く生きて、あと二~三日、もしかしたら、今日、死んでしまうかもしれない。そこで、外出前、母に電話した。そして、いよいよ危なそうだから、今日は、日中、こっちに来てぺいの様子を見ていてほしいと伝えた。母からは、直ぐ、「うん、分った」という言葉が返ってきた。母は、ぺいの容態が悪ければ、いつでも駆けつけてくれるという感じだった。さぁ、これで心配だけど出掛ける事が出来る。私は、「じゃあ、ぺいちゃん、仕事に行ってくるからな」「ぺいちゃん、頑張れよ」と、声を掛けながら玄関に歩いた。すると、ぺいは、いつものように歩いて見送りにきてくれた。それにしても、きっと、今、歩けているのは半分奇跡のようなものだろう。身体は痩せこけて、紙切れのようにぺらぺらだし、連日のように出血だってしている。そして、癌の痛みだって凄く辛いはずだ。それなのに、それなのに歩いて見送りに来てくれている。私は、少し誤解していた。昔は、出掛ける前に、もっと何か美味しい餌がほしいという理由で、出掛ける私の足を必死で噛んできていたのだとばっかり思っていた。でも、こんな状況になってまでも見送りに来てくれているのだ。という事は、純粋に、いつも一緒にいてほしかったという事になる。永遠の別れが本当に身近に迫るまで、本当に本当のところは分らなかった。出掛けてほしくないんだよな?本当に一緒にいてほしいんだよな?そんな事を思っていると、これから仕事だというのに、朝から涙が溢れそうになった。それにしても、あと何回見送ってくれるのだろう?この光景を、あと何回体験出来るのだろう?一回一回の見送りが、本当にかけがえのない大切な思い出になる。どんなに平凡な日常であっても、それが、同じ事の繰り返しであっても、永遠に続く事など決して何一つもない。元気であればこその平凡な日々。平凡な日々が、どれほど幸せな事だったのか・・・。そう心の底から思った。「ぺい、ありがとう!」「今日は、おかぁちゃんが来てくれるからな~」「じゃあ、ぺいちゃん、行ってくるよ」「ぺい~」そんな言葉をぺいに届けながら、そして、見送ってくれるぺいの姿を最後の最後まで目で追いながら玄関のドアを、そっと閉めた。あぁ~、ぺい。電車に揺られて会社に向かっている最中にも、見送ってくれたぺいの姿が、ずっと頭に残っていた。けど、そうしているうちに会社についた。そして、いつものように、ぺいの事を忘れるためにも頭を切り替えて仕事に没頭しようと思った。でも、さすがに、今日は、ぺいの事が気になって仕事が殆ど手につかない。もし、死んでしまったら母から携帯電話に連絡が入る。まだ、連絡がないという事は、とりあえず大丈夫だと、仕事中に何度も思った。それでも、今にも電話が鳴るのではと考えると、気持ちは常に落ち着かなかった。そうして、午前が過ぎ、昼の休憩時間になったので、居ても経ってもいられず母に電話してみた。そして、ぺいの様子を聞いた。すると、「うん、今のところ何とか大丈夫だよ」という言葉。良かった。まだ大丈夫だと自分に言い聞かせた。そもそも連絡がなかったので大丈夫だろうという事は分っていた。だけど、まだ生きているという事を確認出来たので、ほんの少しだけど気持ちは楽になった。

 

そうして、定時に仕事を終わらせると家路を急いだ。ちなみに、母に家に居てもらえるのは日中だけだ。だから、祈る思いで凄く緊張しながら玄関のドアを開けた。「ぺい、大丈夫か?」部屋の雰囲気はシーンと静まりかえっている。このところ、ぺいは迎えに来てくれない。そして、そんな静かな部屋のフローリングの上にぺいの姿を見つける事が出来た。その場所は、昔から一番良く過ごしていたお気に入りの場所だ。でも、姿自体は見つけたけど、正直、あまりにも異様な恰好に目を疑った。それは、前脚も後脚も垂直に完全にへちゃげていて、うつ伏せ状態で全身が床面に張り付いた状態だったからだ。例えると、ムササビが四肢を思いっきり広げて空中を飛んでいる姿で、床面に張り付いたのと同じ状態だ。はたして、そもそも猫が骨格的に考えて、そんな恰好出来るのか?それは、絶対に関節が外れないと無理に思えた。私は、信じがたい姿に言葉を失いつつもぺいの顔を見てみた。えっ!明らかに今朝とは違う。瞼は開きっぱなしで瞬き一つすらしない。瞳孔も全く動いていない。私は、「おい、ぺい」と、思わず声を掛けた。それでも、目も顔も尻尾も身体も、何もかも全て動かない。でも、お腹を見てみると、呼吸で、お腹は動いている。良かった。生きている。でも、これは本当に危ない。そう直感的に思った。そういえば、日中の様子は、どうだったのか?私は、母に電話して、まず、今日、来てくれたお礼を伝えた後、ぺいの今の状態を伝えた。母は、いつもより長い夕方頃まで居てくれたそうだ。それで、夕方、帰る時のぺいの状態を聞いてみると、四肢ではなく、後脚だけが、へちゃげていたとの事。今朝の状況と日中の状況、そして、今の状況。母の話を聞いていると、時間の経過とともに、どんどん状態が悪くなっていった事が理解出来た。つい今朝までは、歩いて見送りしてくれたというのに・・・。もう本当に、いよいよ短いな。土曜か日曜。多分、どちらか・・・。そう思った。

 

ぺいの最期の準備を本当にしなければ。まずは、保冷剤の準備。夏場なので遺体を安置している間に必要だと思って事前に購入していた。でも、冷蔵庫内の製氷室で霜にまみれていたので、一旦取り出して直ぐに使えるように製氷室に納め直した。それと、棺の準備。少し前にインターネットで棺の購入を検討した事があった。でも、棺は、燃えてなくなってしまう。どうせ燃えてしまうなら、その分のお金を生花の方に回して、身体を少しでも多くの花で包んであげたいと思った。それで、棺は、ちょうど一週間程前、近所のスーパーから手頃な大きさのダンボールを棺代わりに頂いてきていて、ずっと部屋の片隅に置いていた。ただ、商品名の書かれたダンボールを目にしていたら、ちょっと何か、やっぱり違うな、本当にこのままで良いのか?そんな思いが少しずつ膨らんでいた。それで、日中に閃いた。それは、棺に似合いそうなラッピング用紙をダンボールに貼れば、商品名は隠れるし、お手製の棺を作れるということだ。そこで、早速、家を出て直ぐ近くの店にラッピング用紙を探しに出掛けた。売り場に着いてみると、数十種類のラッピング用紙が置いてある。ぺいが、この世で最後に過ごす場所に一番相応しいデザイン。どれが良いか?当然、棺用のラッピング用紙なんてない。だから、色々な商品を手に取って考えた。折角なので出来るだけ拘りたかった。結局、十数分程、時間を要したと思う。結構迷ったけど、最終的に、色々な動物が遊んでいるデザインのものに決めた。偶然なのか神様の導きか分からないけど、動物の棺に相応しいデザインのものを見つけられて良かった。それと、ぺいの遺影を飾るための写真立てを買っておこうと思った。今のところ、遺骨は骨壺に入れて、ずっと自宅に安置しておくつもりだ。それであれば、なおさら骨壺と一緒に置いておく写真立てがほしかった。そうして、私は、ラッピング用紙と、写真立てを買って急いで自宅に戻った。今日は、もう外出の必要はない。これで、全ての用事が終わったことになる。そして、明日からは二連休。これから二日間、ずっと、ぺいの傍で一緒に過ごせる。ぺいと同じ空間で同じ空気を感じながら過ごせる。そんな一分一秒は、この世で考えられるどのような時間の過ごし方よりも心底嬉しかった。

それにしても、やっぱり、再び自宅に戻ってきても、ぺいは異様な恰好のままだ。上顎の状態が気になったので見てみると、少し乾燥しているように見えた。もう、自分では動けないから顎を水に浸ける事すら出来ない。私は、シリンジに水を入れて上顎が湿る程度に、そっと、上顎の手前側に軽く水を吹きつけみた。

 

ぺいは、こんな時、びっくりして頭を少しぐらいは動かしても良いはずだった。でも、微動だにしない。これは、どういう状況なのか?でも、もし、喉に渇きを感じていたとすれば、これで、少しは楽になっただろう。その時だった。またもや白く動くものが見えた。「えっ!まだいるの?」それは、紛れもない。その正体は蛆虫だ。「昨日、十二匹も取ったのに」私は、発狂した。「どんだけいるんだよ!」「まだ生きてんだぞ!」「いい加減にしてくれ!」気が狂いそうだ。そして、半分正気を失いつつも、昨日と同じようにピンセットで一匹一匹、また、蛆虫を上顎の穴から引っ張り出した。ただ、昨日、結構な量を捕まえた。さすがに蛆虫も残り少ないようだ。だから、なかなか引きずり出すことの出来る穴の開いたところに白い物体が見えてこない。これは、時間の掛る根気のいる作業だと思った。それから、三十分ほど格闘した。それで、結局、また、五匹も捕まえた。「こんちきしょう!」「いい加減にしてくれ!」そう言い放ちながら全部纏めて勢いよくトイレに流した。昨日捕まえたのと合わせると、十七匹も引きずり出した事になる。それも全て一センチほどの長さで丸々と太っていた。それらが全て、上顎の上に開いた穴の中にいたという事になる。穴の先には、どんな空間があるのか?上顎の骨の中は、どういう構造になっているのか?そんな事、分からない。しかし、本当に良くも十七匹もいたものだ。ぺいは、十七匹もの蛆虫が上顎の中に居て、どんな気持ちだったのか?どれ程、気持ちが悪かった事だろうか?ぺいの気持ちを、ほんの少し想像しただけで本当に申し訳なかったという気持ちで、怒涛のように、くやしさが込み上げてくる。本当にあり得ない。ふざけるな!という感情で、また、頭の中がおかしくなりそうだった。でも、そんな事を、どれだけ思ってみたとしても取り返しはつかない。それにしても、まさか上顎の中に蛆虫の巣窟が出来ているなんて思いもしなかった。そもそも上顎という場所は、ある意味、一番、目にしていた場所だった。なのに、それなのに、どうして気づけなかったのか?もっと、早く、もっと、どうして、そう何度も思った。そして、そんな事を思う度に何度も、くやしさが込み上げてきた。

 

そうして時間は過ぎ、夜になったので、夜の食事を注入するかについて考えた。猫は人間と違い数日間食事をしないと臓器に障害が発生して命に危険が生じる。前回の食事は、昨日の夜が最後だったから、ちょうど丸一日経過したことになる。とはいえ、まだ丸一日。色々、情報を収集してみると三日が限界のようだったので、ひとまず、食事の注入は、この危篤ともいえる状態を見極めながらにしようと思った。今のぺいは、トイレに行きたくても砂場になんて辿り着けない。上顎を濡らしたくても水場にも行けない。そんな状態の時に、もし、食事を強引に注入されたら困るだろう。だから、注入という選択肢は絶対になかった。

 

ふと、時計を見ると、二十三時になろうとしている。帰宅後にラッピング用紙などを買いに出掛けたり、蛆虫を取っていたりしていたら、あっという間に時間が経っている。とにかく、買ってきたラッピング用紙で早めにお手製の棺を作っておかなければ・・・。ぺいは、いつ死んでしまうか分からない。当然、糊が乾く時間も必要だ。だから、早め早めで、今夜中に完成させておく事にした。ラッピング用紙には、色々な動物が遊んでいる様子が描かれている。まずは、それらを、ダンボール一つ一つのパーツの大きさに合わせて切る。そして、それらを貼り合わせてゆく。ぺいがこの世で最後に過ごす場所。この世からの旅立ちに相応しい棺。手作りであれば、ぺいがどれだけ愛されていたのか、その思いが表現出来る棺になる。だから、少しでも綺麗に、そして、丁寧に気持ちを込めて作った。でも、想像以上に時間が必要だった。「やっと出来た~」時計を見ると、深夜の一時半。なんだかんだで、二時間半近くも掛った。でも、ぺいのために丹精込めて作った棺でもあり作品でもある。ついに、お手製のオリジナルの棺が出来上がったのだ。ちなみに、材料費は、たったの二百円。でも、値段なんて関係ない。世の中に売られているどんな棺よりも、どんなに値段の高い棺よりも唯一無二の素晴らしいものが完成したと思えた。それにしても、もう夜も遅い。さぁ、寝よう。そう思い、ぺいの様子を見てみると、やはり、へちゃげた状態のままで瞼も開いたままだ。ぺいは、これから先、どうなるのか?いつまで生きていてくれるのか?それにしても、今日は本当に疲れた。部屋の明かりを消して、色々な事を思いながら眠りに落ちた。 

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八月二十一日(木)

起床と同時に緊張しながらぺいの姿を探した。もう、こんな朝が一週間も続いている。昨晩もぺいの事が気になって殆ど眠れなかった。今日も頑張って生きていてくれている事が確認出来た。でも、容態は日に日に目に見えて悪化している。だから、単純に喜べない。苦しそうな姿を見ていると複雑な心境だ。そういえば、昨晩は、ベッドの上に一度も上がってこなかった。もうジャンプなんて到底無理なんだろう。それにしても、昨晩は、一晩中ペタペタと部屋の中を歩きまわっていた足音が耳に残っている。痛みや苦しさで、眠っていられなかったのだろう。それでも、一つだけ幸いな事があった。それは、部屋の中に血溜まりは見当たらなかったという事だ。一番の心配事だった出血は、ひとまず収まったようだ。これで、何とか今日一日も命を繋げると思えた。そこで、会社に向かう前に母に電話を掛けた。ひとまず出血が止まった事を伝えて、今日のところは何とか大丈夫そうで、やっぱりこちらには来なくても良いという事を伝えた。なぜなら、高齢の母に度々足を運んでもらうのは申し訳なくて、極力、来てほしいと、お願いするのは、最小限にしたかったからだ。そうして、母への連絡を終えて家を出た。でも、その後も、ずっとぺいの事が気になって仕方がなかった。今、部屋のどこで、どうしているだろう?大量出血していないだろうか?もし、帰宅した時に死んでいたら・・・。やっぱり、母に来てもらっていた方が良かったかも?そんな事ばかり考えていた。そうして時間は過ぎ、私は、仕事を定時に終わらせて一目散に自宅に急いだ。最近は、玄関のドアを開けても部屋の中はシーンとしている。もうかれこれ、お出迎えは一か月ほど前からない。大丈夫か?凄く緊張する。部屋に入ってみると、フローリングの床に姿を確認する事が出来た。でも、目は開けてくれないし、尻尾だって微動だにしない。唯一、お腹の動きで、何とか生きてくれている事だけは、暫く見ていると認識出来た。良かった。「ぺい、帰ったよ・・・」とボソッと声に出してみる。きっと、私が、外出していた長い間、孤独に苦しさに耐え寂しかったに違いない。でも、こんな容態だから、身体に触ったり、話し掛けたりすれば負担になる。私は、ぺいの直ぐ傍に座って、ぺいの様子を詳しく見てみた。舌は途中で折れたように後方に反り返っている。それもそうだ。直接、舌が床面に接する度に折れ曲がって、その時間が長くなったことによるものだ。もう元の状態には絶対に戻りようがない。毛繕いをしていた舌。時々、「ぺい、口から舌出てるよ」と、言い聞かせながら何度となく手でつっついた舌。水道の蛇口から新鮮な水を口の中に運んでいた舌。今日は珍しく口を斜め上にして寝ているから上顎の内側まで良く見える。上顎の内側も乾燥して皮膚が黒く爛れている。本当に痛々しい。

 

 あれ?そう思った時、一瞬、何か白いものが上顎の内側に見えた。注意深く見てみると、上顎前歯の直ぐ内側に直径一ミリぐらいの穴が一センチほどの間隔で二つ空いている。こんな穴あったっけ?いつからあるんだ?そう思った瞬間、その穴の奥で何か白いものが動いた。え?何?そこで、暫く穴の中を凝視していると、今度は、その白いものが一瞬だけ穴の外に顔を出した。「何だよ、こりゃ!」私は、やっと、白く見えたものの正体が分った。それは何と蛆虫。以前、あの時、床で見た蛆虫だ。これで全てが理解出来た。「え、おい、ちょっ・・・ちょっと待てよ・・・」という事は、昔、あの部屋の中を舞っていたハエが、ぺいの上顎に蛆虫の幼虫を産み付けていたのか?それにしても、そもそも上顎は、度々、水に浸けていたというのに、よくもそんな場所に寄生出来たものだ。これこそ、青天の霹靂。「ふざけんな、まだ生きてんだぞ!」「蛆虫なんて。もう、本当にいい加減にしてくれ!」大切なぺいなのに。まだ生きているのに。蛆虫なんてあり得ない。蛆虫なんて・・・。癌で苦しんでいるというのに、それを喜ぶかのように蛆虫が寄生して元気に生きて動いている。こんな事、どう考えても絶対にあり得ない。どこまで精神的に打ちのめすのか。今にも気が狂いそうになる。もしかすると狂っていたかもしれない。とにかく蛆虫を摘み出す事にした。摘み出す・・・ピンセット?ピンセットがほしい。でも、ピンセットなんて家にはない。早速、買いに出掛けた。ぺいは、買って戻ってきても外出した時と何一つ変わらない状態で床にいる。私は、早速、ピンセットで憎い蛆虫を摘み出す事にした。でも、そう易々と簡単には摘み出せない。蛆虫の白い体が穴から少し出てきたタイミングで、すかさず摘んで引っ張り出すしかなかった。そして、まず一匹目を引っ張り出した。何て大きいんだ。長さは、一センチ強もある。それも、丸々と太っている。こんなやつが上顎の中に住みついて動き回っていたのか!もう、本当に勘弁してくれ。本当に。私は、完全に心の中で発狂していた。気を取り直して、もう一度、上顎を覗いて見る。すると、まだ白い物体が穴の奥で動いている。再び、穴から少し出てきたところをピンセットで摘んで引っ張りだした。二匹目も一匹目と同じぐらいの大きさだ。そう思った時、ぺいが目を覚ました。でも、まだ穴の中には白い物体が見えている。私は、ぺいが再び寝るのを待った。そして、暫くしてから、また蛆虫の摘み出し作業を再開した。それにしても、下顎は癌で腐敗して完全に失われたというのに、それで、唯一残っていた上顎まで、どうして蛆虫なんかに食い荒らされなきゃダメなのか?まだ生きてんだぞ!いい加減にしてくれ!最初の蛆虫を引っ張り出してから三十分ぐらい経っていた。無我夢中で、結局、十二匹もの蛆虫を摘み出した。それも全て一センチ強の大きさだった。よくもこんなに大量の蛆虫がいたものだ。どれほど不快だった事だろう。もしかして、最近上顎を水に浸けていたのは、この蛆虫が原因だったのか?どうして、もっと早く気づいてやれなかったのか?本当に申し訳なかった。そんな気持ちと、あまりにもショックな現実。本当に頭がおかしくなりそうだ。ちなみに、私は無駄な殺生は一切しない。だから、普段、例えば部屋の中に虫が迷い込んできても外に逃がすようにしている。でも、ぺいを食い物にする蛾や蛆虫だけは憎くて仕方がなかった。「こんちくしょう!」私は、蛆虫をティッシュに包んでトイレに流した。暫くすると、ぺいが立ち上がった。フラフラだ。また足腰が立たなくなってきたようだ。そう思った時だった。少しだけ歩いたところでグシャっとぺいの身体が倒れた。生きていても歩けなくなったら本当に困ってしまう。この先、どうなってしまうのか?

 

 その後は、夜遅くになって、また、出血が酷くなってきた。もう、ベッドの上には上がれないから、フローリングの上には赤い血が付着している。私は、ぺいが移動する度に付着した血を拭き取った。そうして、寝る前に食事をシリンジ一本分だけ注入した。本当は食べ物の消化どころではないはずだ。だけど、出血している分、食事で少しでも栄養を補わなければならないと思った。

八月二十日(水)

 今日も朝起きると真っ先にぺいの姿を緊張しながら探した。日に日に容態が悪くなっているから凄く緊張する。そして、直ぐにフローリングの床面に姿を見つける事が出来た。でも、死んだように横になっている。もしかして・・・。少し焦った。ただ、良く見てみると、お腹が弱々しいながらも呼吸で動いている。まだ大丈夫だ!良かった。また一緒に新しい一日を迎えられたと思った。とりあえず姿は見つけられたけど、深夜の間に何か変わった事がなかったかを確認する為に部屋の中を見渡してみる。また糞が一つ落ちている。以前と同じ一センチほどの固形の糞。いつものようにティシュで摘んで捨てる。でも、糞だけであれば数日前からの事。想定内の事なので特に驚きはなかった。ただ、この日は、いつもと違うものが目に飛び込んできた。それは、血溜まり。直径一~三センチ程の血溜まりが床面に四か所もある。深夜、出血したようだ。ぺいは、私が寝ていた間も、ずっと苦しんでいたに違いない。私は、その間、悠々という訳ではないけど横になって寝ていたのだ。ぺいが苦しんでいるのに何もしていない、してやれない自分。そんな事を思いながら血溜まりの一つ一つを拭き取った。とにかく今日も仕事だから、あまり感傷に浸っている暇もない。ひとまず、いつものように流れ作業で身支度を済ませた。そして、「ぺいちゃん、行ってくるからな~」と声を掛けながら玄関へ歩いた。すると、ぺいが私の後を追って歩いてきた。昔であれば、日常的だった見送り。いつも足を噛んできたので逃げるように部屋から出る事も多かった。あの頃は悩まされたけど、今は、本当に良い思い出。ただ、それだって、つい最近までは、ごくあたり前だったのだ。あと何日、あと何回、見送って貰えるのだろうか?見送りしてくれるという事が、どれだけ嬉しくて思い出に残る事か・・・。そう言えば、一晩経って、また何とか歩けるようになってくれたようだ。でも、凄く大変なはずだ。それなのに、今日も見送りをしてくれるぺいちゃん。ありがとう。本当は、ずっと、一緒に部屋にいてほしいんだよな。俺だって、一分一秒でも一緒に過ごしたいよ。でも、仕事だから仕方ないんだよ。「ぺいちゃんごめんな.・・・」本当に辛い。泣けてくる。私は、部屋を出る時、「ぺい、行ってくるよ~ぺいちゃん」と声を掛けた。そして、後ろ髪を引かれる思いでドアを閉めた。

 

 それから、日中は、仕事をして、日も暮れた頃、ぺいに早く会いたい、そんな衝動を抑えつつ、半分走るほどの駆け足で自宅に戻って、緊張しながら玄関のドアを開けた。ぺいはどこにいる?大丈夫か?すると、直ぐ、ベッドの上に姿を確認出来た。さらに、部屋の中に入ってベッドに近づいてみると、何と、ベッドの上に敷いていたタオルが血で真っ赤になっている。それも、今までとは明らかに違う色。鮮血だった。過去に見たことのない大量の出血。ぺいは、うつ伏せになっている。私は、それを見て発狂した。「ぺい、もう頑張んなくて良いよ」「ぺいは充分頑張った」「皆、頑張ったけど、ぺいが本当に一番頑張った」「他の誰よりも一番頑張った」「世界で一番頑張った」「もう大丈夫だよ!ありがとうぺいちゃん」そんな言葉を何度も何度も繰り返した。もう、こんなに苦しくて辛い思いをするぐらいなら、一分一秒でも早く楽になってほしい。そんな思いだけだった。私は、ずっと、ぺいに「頑張れ!頑張れ!」と、声を掛けてきた。でも、ぺいは、今まで本当に一生懸命頑張ってきた。もう充分だから!もう本当に大丈夫だから・・・、もう本当に・・・。心からそう思った。とにかく、ベッドの上のタオルを取り替えなければならない。タオルは二枚重ねにしていた。なのに、鮮血は、その二枚のタオルも、シーツカバーも通り抜けてシーツにまで達している。あまりの出血だ。そういえば、今日は水曜日だから、日中、母が来てくれていたはず。そこで、出血の連絡も兼ねて日中の様子を聞いてみた。私は、まず大量出血の事を伝えた。続けて、日中の様子も聞いてみると、日中は、特に出血なんてしていなかったそうだ。ただ、兼ねてからぺいの舌が黒ずんでいたり膿が付着しているのが気になっていたので、手で舌を洗ってくれたそうだ。もしかしたら、舌を洗った影響で出血したのかもしれない。話を聞いていて、そんな事を少し思った。でも、いずれにしろ遅かれ早かれ出血は避けられなかったに違いない。そもそも、母だって、ぺいの事を思って舌を洗ってくれたのだ。だから、私は、舌を洗ってくれた事に対しては、「あっ、そう・・・」という言葉だけを母に返した。そうして、ひとしきり話しをして、最後にお願いを伝えた。「明日、もしかしたら死んでしまうかもしれないから、日中、こちらにいてほしいんだけど・・・」母からは、「分った」という言葉が直ぐに返ってきた。私は、ぺいが最期を迎える時、傍に誰もいなくて、帰宅してみたら冷たくなっていたという事だけは、とにかく出来る限り避けたかったのだ。ぺいと一緒に頑張ってきた私と母。最期は、そのどちらかが、傍にいて看取ってやりたい。きっと、母だって同じ気持ちだったのだと思う。

八月十九日(火)

昨晩は、これまでで一番徘徊していた。一晩中、ずっと、三十秒置きぐらいの感覚でベッドの上に上がったり床に下りたりを繰り返していた。ベッドに何度も上がってくるという事は、本当は、ゆっくり眠りたいに違いない。でも、きっと痛くて苦しくて、じっとしていられないのだろう。ぺいがそんな状態だったもんだから、私も、このところ連日、良く眠れなくて寝不足が限界点にまで達している。身体が重い。でも、ぺいに比べれば全く取るに足らない。ぺいは必死に頑張っている。私が睡眠不足なんかで弱音など吐ける訳がない。そう自分に言い聞かせた。そして、身体に鞭を打って会社へ向かった。

 

 それから、日中は、ぺいの事を一時的に忘れる為に、逆に仕事に没頭するようにして、仕事を終えたら一目散に家路を急いだ。そして、玄関の扉を開けた。えっ!余りの酷い状態に目を疑った。何と水場の水が血で真っ赤に染まっている。外出する前に綺麗な水に取り替えていたのに、まさに真っ赤な血の海。ぺいは、その血で染まった中に上顎を沈めている。大丈夫か?大丈夫であるはずがない。人間でもこんなに出血したら一大事だ。それほどまでに大量に出血している。それも人間よりも遥かに身体の小さい猫の出血。尋常でない。ひとまず、直ぐに水を綺麗なものに交換した。すると、ぺいは綺麗な水の中に再び顎を浸けた。また見る見るうちに水が血で染まってゆく。そして、暫くして水を見てみると、また真っ赤に染まっている。まだ水を取り替えたばかりだ。五分ほどしか経っていない。私は、その後も水が真っ赤になる度に綺麗な水に交換した。それでも、水は直ぐに血で染まる。五回程繰り返した。本当にキリがない。そんな事を思いながら水を取り替えていると、ぺいが水場から離れた。そして、部屋の中に移動してフローリングの床の上に横たわった。私も、それであればと部屋の中に移動して、暫くしてからは、パソコンデスクに座ってインターネットを見ながら過ごしていた。すると、突然、背後から聞きなれない音。何かと思って振り向いてみると、ぺいが床からベッドの上に上がろうとしたようで、音の正体は、ジャンプに失敗した音だった。ベッドの高さは床から三十~四十センチぐらいなのに、たったそれだけなのにジャンプ出来なかったのだ。そして、ジャンプに失敗した時、ベッドの上に敷いてあったタオルに前脚の片方の爪を引っ掛けてしまって、タオルと一緒にベッドと床の間で宙ぶらりんの状態になっていたのだ。ぺいはこちらを向いている。私は、直ぐにぺいと目が合った。その時、気のせいか凄く気持ちが通じ合えたような感覚があった。私は、やれやれ、仕方ないなぁ~と思って、直ぐ前脚の爪からタオルを外してやった。ぺいは、自分の状況が不甲斐ない事を百も承知していたのだろう。それと、私が、直ぐに手を差し伸べてくれる事も分っていたのだろう。目が合った時、何か感じるものがあったのは、そういう事なんだろうと思った。

 

 その後のぺいは、ベッドに上がるのを諦めた。そして、時間が過ぎ、私は、ベッドの上でテレビを見ていた。すると、フローリングの上で立ち上がろうとするぺいの姿が目に入った。だけど、今度は、足腰が砕けるように、突然、その場に倒れてしまった。何がどうしたというのか?ぺいは、自分の身体が思い通りにならない事が、少し不思議そうな様子だった。そして、暫くすると気を取り戻せたようで、また、再び立ち上がろうとした。今度は何とかふらつく事なく、すくっと立つことが出来た。立ち上がれたぺいは水場の方に歩いていく。でも、酔っ払いのように、フラフラして上手く歩けていない。身体が左に逸れながら歩いているかと思えば、今度は右側に逸れながら歩いている。一体どうしたというのか?もう、これは、いよいよ本当に危ないと思った。これから先、体の自由が利かなくなったら水場にも砂場にも行けなくなってしまう。思ったように動けなくて寝たきりになってしまったら、どうやって生きてゆくというのか?それと、以前は、最期は、バスルームの中だと思っていたけど、もうそれは絶対にないなと思った。なぜなら、バスルームに入るには、床から二十センチ程ある段差を越えなければならないからだ。こんなにフラフラしていたら段差を越えるなんて絶対に無理だ。

 

 それと、この日、もうやめようと思った事がある。それは、ぺいの写真や動画を撮る事だ。ぺいが癌になってから、写真や動画を撮ってきた理由は、心のどこかで奇跡を信じていたからだ。でも、もう本当に危ない。そもそも、今までは差し迫った命の危険を感じる事なんてなかった。でも、もう、こんな状態にまでになったぺいを撮影するなんて、精神的に絶対に無理。もう、無理・・・。絶対に。そう思った。