「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

まだ数年は続くと思っていた、愛猫「ぺい」との平凡な日常。
しかし、その後の誤診と突然の癌宣告...。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見た記録です。

八月二十三日(土)

昨晩は寝るのが遅かったので、いつもより少し遅めの起床になった。真っ先にぺいの姿を探した。良かった。まだ生きてる。でも、異様な恰好は、昨晩と何一つ変わっていない。ただ、まだ、ぺいの命は、自分と同じ、この世にある。だからこそ、一秒一秒というかけがえのない大切な時間を、今日も一緒に刻めているという事が、本当に心の底から嬉しい。でも、やはり気になるのは、おそらく今日明日の命という事。癌という事が分って半年か・・・。私は、そんな事を思いながらキッチンに立っていた。キッチンは、ぺいがへちゃげて、うつ伏せになっている場所から二メートルほど。そんな時、時間は、午前十時半頃、ふと動くものを横目に感じた。顔を向けてみると、ぺいが尻尾をパタンパタンと大きく振っている。あれ?どうした?このところ尻尾なんて全然振らなくなっていたのに・・・。もしかして、もしかすると、少し元気が出てきたのかな?もしかして、元の普通の状態に戻りたいのかな?そんな意思表示なのかなと思った。それで、思いがけない展開に嬉しさが込み上げてきた。もし、そうであるなら、あともう一週間、次の休日まで、なんとか生きていてほしい。食事の注入だって、また、少し再開しないといけないな・・・。そんな期待に胸が膨らんだ。そこで、ぺいの横に座ってみる。もう、こんな状態で丸一日。もしかして、結構前から普通の状態に戻りたかったのかもしれない。でも、ここまでへちゃげた状態になってしまったら、絶対に自力では元の状態に戻れないだろう。だから、その事を私に何とか伝えたくて、尻尾で意思表示をしているのだろうと思った。そこで、ぺいの前脚の両脇の下に私の手を入れて、自力で立てるぐらいの高さにぺいの身体を持ち上げてみた。少しでも状態が回復していて、本当に立ちたいという意思があるのであれば自力で立つだろうと思った。よっ!あれ?いざ持ち上げてみても、なぜか全く立とうとはしない。それであれば、このまま持ち上げていても仕方がない。再び、持ち上げた身体をゆっくりそのまま床に下ろした。すると、また、下ろすにしたがって、ぺいの両脚は直角に曲がり、結局、元のへちゃげた状態に戻った。やっぱり駄目なのか?立ちたいという意思はあっても、まだ、実際に立てるほどには回復していなかったのか?

 

それにしても、今朝、起きた時には、ぺいと、この世で一緒に過ごせるのは、今日明日ぐらいまでかと思っていた。でも、もしかしてと期待を抱けた。それにしても、その分、結果的に立てなかったという事は、精神的に落差が大きかった。やっぱり、今日明日の命なのか?やっぱりダメなのか?もう、本当に死んじゃうのか?まだ、一緒にいたい。別れたくない。そんな思いが頭の中を過ぎった。そして、急に悲しみが怒涛のように込み上げてきた。「ぺいちゃん、なんでこんなになっちゃったんだよ」「なんで癌なんかになっちゃたんだよ」今まで、無意識に心のどこかで我慢しながら溜め込んできたものが、再び、堰を切ったように溢れ出てきた。でも、そんなもの、今まで何度も散々涙で洗い流してきたはずだった。それなのに、それなのに・・・。「ぺいちゃん、ごめんな」「助けてあげれなくてごめんな」「本当に本当にごめんな」「痛いよなぁ」「ぺいと別れたくないよ」「散々、苦しい思いをさせてごめんな」「まだ、ずっと一緒に居たかったよな」へちゃげているぺいの真上で思いっきり声を荒げて泣いた。どれぐらい経っただろうか?どれぐらいの時間泣いていただろう?多分、三十分ぐらい号泣していた。ふと、我に返って目を開けてみると、自分の流した涙が幾つも粒になって床に落ちている。その時だった、ぺいが、少しだけ私の方に頭を向けてくれた。今のぺいは、昏睡状態ともいえる状態。それなのに、まさか、何か反応を返してくれるなんて思いもしなかった。そもそも、頭を少し動かすだけでも、渾身の力が必要なはずだ。それなのに、それなのに・・・。ぺいちゃんは本当に最後の最後まで・・・。「ありがとう」「ありがとう、ぺいちゃん!」「本当にありがとう」ぺいの事が愛おしくて愛おしくて胸が締め付けられる。でも、もう一緒に過ごせる時間は本当に残り僅か・・・。また、そんな現実が直ぐ頭を過ぎる。そうしている内、私は、無性にぺいが我が家にきたばかりの頃の写真を見たくなった。あたり前だけど、十一年前のぺいの姿は初々しくて元気な様子ばかりだ。それらの写真を見ていると、その一枚一枚、その全てに写真を撮った当時の気持ちが鮮明に蘇ってくる。それにしても、つい最近の事のように思える。十一年という年月は過ぎてみれば本当に早かった。私は、それらの写真の中から選りすぐった一枚をぺいの視線の先に置いてみる。なぜなら、若かりし頃の姿を見る事によって、我が家に来てからの思い出を旅立つ前に一つでも多く思い出してほしかったのと、若い時の漲るパワーを、本当に少しでも獲得して元気を取り戻せるものなら取り戻してほしいと思ったからだ。ただ、やはり写真を置いてみても、相変わらず瞼は開いたまま。きちんと写真を認識出来ているのだろうか?それは分からない。とりあえず写真は、ほんの少しでも何か良い事に繋がると良いなと思い、そのまま置いておく事にした。

 

それにしても、もう二度と立てそうにない。このままだと、いつ死んでしまっても不思議ではない。以前から何度も情報収集をしてきたけど、もうさすがに、火葬場の住所などについて、きちんと最終確認しておかなければと思った。そう言えば、動物の葬儀について色々と調べていると、動物の葬儀には、合同葬や個別葬、立会葬などの種類がある事が分かった。また、立会葬でも移動火葬車が自宅近辺まで来てくれるものもあれば、こちらから火葬場まで出向くものまである事が分った。もちろん、大切なぺいの火葬は、絶対に人間と同じように火葬場で、そして、立会葬で行いたいと思っていた。そして、そうした条件を満たしてくれる火葬場が、自宅から意外と近くにある事までは既に確認済だった。そこで、あらためて、そのチェックしていた火葬場のホームページを訪れてみる。それで、もう一度、正確な住所や葬儀の申し込み方法を確認した。すると、火葬の申し込みには、電話と、ホームページ上から申し込むという二通りの方法があって、ホームページからだと十%割引と書いてある。私は、もし、これから先、ぺいに何かあった時には、安くなるホームページの方から申し込もうと思った。正直、きちんと本当に受け付けてくれるのか少し不安だったけど、申し込んで少し待って何も連絡がなかったら、きっと電話しても割り引いてくれるだろうと思った。ちなみに、この時、時刻は、ちょうど正午頃だった。私は、パソコンデスクの椅子に座ってホームページを見ていた。この時、ぺいは、私の背後にいた。ふと、ぺいの事が気になって振り返ってみても、まだ、何一つとして変わりない。そういえば、ぺいの視線の先に置いた写真は、もう三十分程そのままだ。残念だけど、写真では何も変化がなさそうだ。このまま置いていても仕方がない。とりあえず写真は回収した。そして、またパソコンの前に座った。それにしても、パソコンの画面を見ていても、頭で考えている事は、常にぺいの事だけだ。大丈夫か?峠は越えただろうか?ついさっきまでは、今日明日の命と思っていたけど、もしかしたら、もう少し生きていてくれるかもしれない。火葬場の情報を確認しつつも、そんな希望も心の中に少し芽生えつつあった。今日は、久々に尻尾を大きく振ってくれたし、私が泣き終わった時、頭を少し私の方に向けてくれたりもした。そんな変化や出来事が凄く嬉しかった。そう言えば、今夜で丸二日間、食事を抜いた事になる。これ以上、食事を抜くと別の意味で命を危険にさらす事になる。夜、久しぶりに少しだけ食事を注入しよう。そう思った時、後方から変な音がした。その音の正体、それは、ぺいの声にならない声だった。時間は、昼の十二時半頃。振り向いて見ると、また、ぺいが前後の脚をググっと力ませている。やっぱり、へちゃげた恰好のまま辛くて何とか立ちたいのか?でも、前みたいに脇の下に手を入れて身体を持ち上げて、結局、自力で立てなかったら、無駄に負担を掛けてしまう。どうしょう?少し考えて、出来うる限りの最善策として、立とうしている事のアシストに徹する事にした。具体的には、私が、ぺいの身体の上に覆いかぶさるような恰好になって、力ませているぺいの前後の両脚を少しでも踏ん張りが利くように、私の両腕で挟み込んでみるという方法だ。そうして、ぺいが前後の脚をググッと力ませた時、腕を内側に狭めてみる。駄目だ。やっぱり立てない。もう、立ちたいと思っていても立てないのだろうか?

 

そして、それから、さらに、三十分程、経った時だった。突然、後方から今までに聞いた事のない奇声が聞こえた。それは、紛れもないぺいの声。私は、びっくりして勢いよくバッと後を振り向いた。ぺいの下顎は完全に失われて、舌も床にあたって百八十度折れ曲がっている。そんな状態で発した声。声になっていない声。ぺいは、再び両脚を力ませている。でも、今度は何度も、なぜか、とても強く力んでいるのが分かった。何だ?これは、今までの力み方とは明らかに違う。あっ!この時、やっと脚を力ませていた理由が理解出来た。それは、決して立とうとしていたのではなく、痛くて力んでいたのだ。その前に尻尾も振っていたから、私は、てっきり少し元気になってきたのだとばかり思っていた。とんだ勘違い。青天の霹靂だった。それにしても、今、目の前で、もだえ苦しんでいる様子は、完全に常軌を逸している。これは本当に危ない。もう、これは危篤だ。容態が非常に切迫している事を理解するのに、時間は必要としなかった。そうだ、母に連絡しないと。ずっと、二人三脚で一緒にぺいの面倒を見てきた。母にもぺいの最期に立ち会ってもらわないと。でも、ぺいの様子は、いつ死んでしまってもおかしくない。もしかしたら、母に電話している間に死んでしまうかもしれない。それほど切迫した状況。ぺいの最期は、一秒たりとも目を離さずに見守っていてやりたい。そうしないと絶対に後悔する。とにかく、そう思った。だから、母への連絡は、一旦、中止した。

 

そして、そのままぺいの様子を見守っていると、今度は、両脚だけでなく全身にも力が入ってきた。それでも、恰好は相変わらずへちゃげたままだ。だから、身体は殆ど動かせない。それなのに全身が激しく動きだした。そして、表現しがたい苦痛を訴えるような喉からの奇声が続いた。もうこれは、完全に悶え苦しんでいる。私は、何も出来ない。ぺいが苦しむ様子を見ているだけ。それが、精一杯。そして、一瞬たりとも目を離せない緊迫した状態が続いた。どれほど時間が過ぎただろう。それは、初めに奇声を発してから三十分程経過した時なのではと思う。呼吸で動いていたはずの腹部が動かなくなったような気がした。あれ?もしかして?いや、気のせいだ・・・。あまりに苦痛が続いて少し呼吸が弱くなってしまったか?腹部近辺を注視しながら見続けていた。すると、腹部の上部のあたりから胸の方にかけて、波打つように筋肉が、大きく二度三度、間隔を置いて動いた。良かった。大丈夫だ。まだ大丈夫だ。動いている。でも、そう思った直後だった。頭の先から尻尾の先まで、なぜか一切、動きという動きが感じられなくなった気がした。えっ?今、何が目の前で起きているのか。私は、頭の中が混乱して状況を理解出来ずにいた。まだ心臓は止まってないよな?さっき、波打つように筋肉が動いていたし・・・。だから、まだ心臓は動いているよな?まだ、大丈夫だよな?大丈夫なはずだよな?そんな不安に襲われた。そして、その瞬間、頭の中が真っ白になった。あれ?でも、動いてない?もしかして・・・。えっ、動いていない?そうだ!瞼は目に近いから瞼を触ってみれば、その反応で生きている事が確認出来る。私は、ぺいの瞼に手を当ててみた。えっ、違う・・・。一瞬で瞼に手が触れた瞬間に分った。石のように硬い。今までとは違う何か別のものを触ったような感覚。とてつもない違和感を手に感じた。えっ、死んでる・・・。も・・・、もう死んでる・・・。そのまま手で瞼を閉じようと思った。でも、皮膚が硬直している。「おい、いつ死んだんだよ!」「ぺい」「おい、ぺい!」「いつ死んだんだよ~お前よぉ~」時計を見てみると十三時半。ぺいが・・・、ぺいが死んだ・・・。「ぺいちゃん・・・」もう二度と動かない。そんな死という現実。良く頑張ったな。やっと楽になれたな。安らかに眠ってほしい。そう思うことしか出来なかった。私は、再び、瞼を閉じてみようと思った。でも、どれだけ力を入れても閉じられない。もしかして、ずっと瞼を開けたまま丸一日程過ごしていたから、それで筋肉に癖がついてしまったのか?それにしても、まだ息を引き取ってから一分程しか経っていないはずだ。それなのに、どれだけ力を入れても閉じる事が出来ない。あの世に行ったのだから、もうこの世なんて見ないで目を閉じて安らかに眠ってほしい。だから何とか瞼は閉じてやりたかった。でも、このまま閉じる事の出来ない瞼ばかりに気を取られている訳にもいかない。もう、死後硬直が始まっているのだ。とにかく前後両脚を広げたムササビのような恰好で硬直させる訳にはいかない。そんなのかわいそうだし、棺にも入らなくなってしまう。私は、ぺいの身体を床からゆっくり持ち上げて、左右の両脚を重ね合わせるように折り畳んだ。これで、猫が普通に横を向いて寝る時の恰好になった。今日は土曜日。週明けからは、また一週間仕事がある。もし、ぺいが死んでしまったら、火葬は休日中に終わらせたいと思っていた。それで、私は、急いで例の火葬場のホームページにアクセスして、取り急ぎ日曜の十五時から火葬を希望する旨の予約を済ませた。そして、母に電話した。「ぺいが死んだ」「え?死んじゃったの?」「いつ?」「今」「え、今?」「うん・・・」「分かった、じゃあ、今からそっちに行くから」「分った・・・」ぺいの命が短い事は覚悟していた。だけど、現実を目の前にすると、ぺいか死んだという事を伝える為の必要最低限の言葉を並べるだけでも凄く口が重かった。でも、ひとまずこれで火葬の手配も母への連絡も終わった。この後、母が到着するまでには、最低でも三十分は掛る。私は、あらためて動かなくなったぺいの前に座った。そして、ぺいに声を掛けた。「ぺい、お前は、本当に最後の最後まで良く頑張ったな」「やっと、楽になれたな」「ゆっくり眠れよ・・・」そんな言葉を何度もぺいに届けた。でも、本当は、まだまだ生きていたかったはずだ。「まだ本当は生きていたかったよな・・・」「ぺい?」そんな事も聞いてみた。ぺいとは、一緒に奇跡を信じながら頑張ってきた。それなのに・・・。まだ、一緒に暮らしていたかった。まだ、別れたくなんてなかった。まだ十一歳じゃないか。人間で言えば還暦を過ぎたばかりぐらいじゃないか。それなのに・・・。再び、悲しみが込み上げてくる。ほんの一時間半程前にも声を荒げて泣いたばかりだった。あの時には、もう散々泣いたから、これ以上、涙なんて絶対に残ってないと思っていた。でも、もう二度と動かないぺい・・・。痛々しくてボロポロの身体になったぺい。そんなぺいが目の前にいるかと思うと、再び、抑えようのない悲しみが怒涛のように込み上げてきた。「ぺい~、戻ってこいよ」「どうしてそんなに早く死んじゃうんだよ」「ぺい、ごめんな」「痛い思いをさせて、ごめんな」「本当に痛かったろ」「痛かったよな」「辛かったろ」そんな事を何度も口にしながら声を荒げて泣いた。きっと、近くに人がいたら泣き声と混じり合って何を言っているのか分からなかったに違いない。もしかしたら、泣き声だって玄関の外に漏れていたかもしれない。とにかく、我を忘れて泣いた。こんなに大泣きしたのは生まれて初めてだった。

 

そして、どれほど時間が経ったのだろう?時計を見てみると、二十分程泣いていたようだ。そう言えば、まだ、母は到着していない。私は、ぺいの身体を死に化粧ではないけど綺麗にしようと思った。ぺいの身体には涎や血液などがこびりついている。天国では、綺麗な身体で過ごしてほしかった。「ぺいは本当に綺麗好きだったからな~」「綺麗にしような」「ぺいちゃん」やさしく声を掛けながら手や足を拭いてやった。元気な頃は、猫だからあたり前だけど、暇さえあれば自分の舌で身体を舐めていた。でも、癌になってからは、そんな猫として当たり前の事すら叶えられなくなった。どんな気持ちで過ごしていたのだろう?ちなみに、癌になって一番汚れが酷かったのは前脚だった。だから、時々、風呂場に連れて行って、シャワーでぬるま湯を掛けながら洗ってやった。だけど、この二週間程は、本当に辛そうで身体を持ち上げたり、まさかシャワーを掛けたりなんて絶対に無理という状況だった。あっ、そうだ!ふと、ぺいの口の中が気になった。それは、何だか分らない正体不明のものが口の中にあって、棒状で口の奥の方から突き出ている。この際、口の中を徹底的に観察して見ようと思った。今までも機会を見つけては何なのか知りたくて見てきたけど、生きている時には、どうしても観察しづらくて分からなかった。でも、それが、何だったのか、やっと分かった。それは、右下の顎の骨。分かってさえしまえば、どうして今まで分からなかったのか不思議だ。でも、その骨の形は、半分以上が癌細胞に冒されていたから、顎の骨の形状からは、かけ離れていたし、癌に冒された影響で酷く変色していたから、まさか顎の骨なんて思わなかった。

 

そう思った時、またしても、白いものが視界に入った。床に一匹。また蛆虫だ。「こんちくしょう」この数日間、散々捕まえたのに、まだ居たのか。「本当に、いい加減にしてくれ」発狂した。でも、この蛆虫は、今まで捕まえてきた蛆虫とは違って瀕死の状態に見える。多分、宿主が死んだから命からがら脱出したんだろう。それにしても、ぺいは、もう死んだというのに・・・。もしかして、まだ蛆虫が居るのか?もしそうだったら、とんでもない。そう思って上顎にある穴の中を見てみる。すると、また一匹、穴の中から出てこようとしている。「本当にいい加減にしてくれ!」「ふざけんじゃねぇ!」直ぐピンセットを用意して摘み出した。もう一度、穴の中を見てみる。すると、また白いものが見えた。「こんちきしょう!」「もう、いい加減にしてくれ」そして、さらに一匹を摘み出した。もう一度、穴の中を見てみる。まだか?これで大丈夫か?さすがにもう大丈夫そうだ。結局、死んだ後に、また三匹も摘み出した。「本当に最後の最後まで・・・」それにしても、この三日間で捕まえた蛆虫を全部足すと全部で何匹になるのか計算してみた。最初に十二匹、昨日が五匹、そして、今日が三匹。足すと全部で二十匹にもなった。それも、全部一センチ大の大きさ。上顎の狭い空間に二十匹もの蛆虫がいたのだ。一体、どこに、そんな空間があったのか?とにかく本当に冗談じゃない。もう、本当にいい加減にしてくれ。でも、これでやっと、蛆虫は全部退治出来たはずだ。火葬が蛆虫と一緒だなんて、それこそ絶対にあり得ないと思った。

 

そうして、その後、私は、気を取り直して、ぺいの身体拭きを再開する事にした。それにしても、固くこびりついた汚れは易々とは落ちてくれない。だから、水を汲んできて汚れをふやかして、時間を掛けながら落としてゆく。そして、顔の頬を拭こうとした時、思わず手が止まった。上顎の口の周りの毛が擦れて殆どなくなっている。そういえば、ここ数日は、フローリングの床面に上顎が接している事が多かった。本当に予期しない場所までボロボロになっていて痛々しい。そう思った瞬間、ガチャと音がした。玄関のドアを開ける音。母だ。時計を見ると、二時十五分。電話をしてから約四十分だから、直ぐに身支度をして駆けつけてくれたようだ。そして、母の目にも動かないぺいの姿が映った。母も心の準備をしながら駆けつけてくれたに違いない。だけど、実際に動かなくなったぺいを目の前にするとショックを隠せない。「ぺいちゃん」「ぺいちゃん・・・。」ぺいの名前を何度も呼んでくれている。

 

それから間もなくして電話が鳴った。火葬場からだった。話によると、ホームページ上から予約を希望していた十五時からの火葬は、既に予約で埋まっているとの事。でも、午前の十時か午後の十三時半からであれば空いているそうだ。出来る事なら少しでも遅い時間にして、ぺいと一緒に過ごせる時間を一分一秒でも多く確保したかったけど仕方がない。私は、「では、十三時半からでお願いします」と答えた。すると、当日は、火葬前の手続きがあるので、火葬時刻の二十分程前に到着してほしいとの事。家で一緒に過ごせる時間は、さらに短くなるのか・・・。まぁ、こればっかりは仕方がない。とりあえず、何はともあれ、仕事が休みの間に、火葬を終えられる目途がついて何よりだった。火葬場との電話を終えた私は、直ぐ母に明日のスケジュールを伝えた。まず、火葬場に向けて出発する時刻は、余裕をもって到着したいので十二時過ぎにしたいという事、そして、最後のお別れの時間を考えると、火葬場に向かう一時間程前に、こちらに到着すれば良いのでは?という事を伝えた。母は、ぺいの身体を撫でながら「うん、分った」との事。そして、一呼吸おいて、「病院へ連れて行くまでは、一緒に暮らしてなかったし、だから特別どうって事なかったけど、病院へ連れてゆくようになったら、どんどん情が移っちゃって仕方なかったよ」と、ぺいに対する気持ちを話してくれた。母は、ぺいが病院へ通院させる必要がなくなってからも、ほぼ毎週、必ずといって良いほど、ぺいの様子を見に会いにきてくれていた。それも、ただ、来るというだけではなかった。ぺいを気分転換させてやりたい一心で蝉を捕まえてきてくれたり、生きているうちに少しでも美味しいものを食べさせてやりたいと思って、やわらかく湯通しした肉を用意して持ってきてくれたりもしてくれていた。私は、母の言葉を聞いて、ほんの短い数か月という期間ではあったけれど、凄く沢山の思い出が頭の中に浮かんできた。それと、母は、「昨日はぺいの横で、ずっと歌を歌ってあげてたんよ」という事も話してくれた。何の歌かは聞かなかったけど、きっと、ぺいの名前の入った子守唄ぽい歌だろうと何となく思った。ありがとう。ぺいも、最期を迎える前に母から励ましの歌を聞いて元気づけられた事だろう。そして、そう思ったら、また思わず涙が溢れそうになった。いい歳した大人が、まさか母の前で涙を見せる訳にはいかない。このままでは拙い。私は、何とか気を紛らわせる方法を探した。そうだ。壁には、ぺいの涎が四方八方に付着している。ぺいの亡骸を見ないように、ひたすら壁を見ながら掃除をしていれば少しは気が紛れる。あと、私が掃除をしていれば、母にも、ぺいとの別れの時間を存分に作ってあげることが出来るので、一石二鳥だと思った。そこで、ぺいの身体拭きは母に引き継いで、私は、部屋の中の拭き掃除を始めた。

 

それにしても、掃除で絶え間なく手を動かしつつも頭の中では違う事を考えていた。ぺいが苦しんで息絶えた時の様子が何度も蘇ってくる。ぺいは、凄く悶え苦みながら死んでいった。時間にすれば、三十分程だったかもしれない。でも、ぺいの苦しみは、そのまま自分自身の苦しみで、ぺいの苦しむ様子を見ていた時間は、苦痛以外の何物でもない拷問のような時間だった。私は、ぺいが息絶える直前、ぺいの身体の上に覆いかぶさるように死神が取り付いて、ぺいの身体と一体になっている生きようとする意思の塊のようなものを容赦なく剥ぎ取っていったような気がした。もしかしたら、その意思の塊のように感じたものが、目には見えない魂そのものだったのかもしれない。とにかく、ぺいは、苦しんで苦しんで、もがき苦しんだ。そして、喉から声にならない声のようなものを何度となく出していた。その苦しむ様子と声にならない声は、「もう、その身体はボロボロだからいい加減諦めろ」「もう、お前は、この世での使命は充分果たした諦めろ」という死神からの説得を聞き入れないで、必死に抵抗しているように思えた。とにかく、あの時の様子は頭にしっかり残っている。そういえば、つい最近まで、「頑張れ、頑張れ」「みんな頑張ったんだから、ぺいも頑張れ」といった事をぺいに伝えてきた。だけど、今は違う。「本当に最後の最後まで良く頑張った」「ぺいは本当に本当に凄く頑張った」「みんな頑張ったけど誰よりもぺいが一番頑張った」「世界で一番誰よりもぺいが頑張った」ぺいの頑張りを心の底から褒めてあげたくて、そんな言葉が次から次へと出てくる。すると、母も直ぐに私の気持ちに共感してくれて、さらに、母と一緒に、ぺいの頑張りを何度も繰り返し褒めた。褒め続けた。そして、ぺいの事を褒めたり、母と、ぺいとの思い出話をしていると何度も涙が溢れそうになった。でも、そんな時は、涙声になりそうだったから、気持ちが落ち着くまで何も言葉に出来なかった。だけど、それも想定内で、拭き掃除に集中しているフリをして間を繋いだ。だけど、掃除中、母との会話以外の事でも涙が出そうになった。それは、普段、目につかないベッドの隙間を覗いた時だった。何と床面に大量の血痕があったのだ。その血痕は、完全に乾いていたけど、かなりの血の量だという事が想像出来た。癌の痛み、そして、こんなにも大量出血して、ぺいは、癌になってから、どんなに辛い時間を過ごしてきたのだろう・・・・。想像するだけで、途端に涙が溢れそうだった。そもそも、胃瘻までつけて存命させた事が、本当に正しい選択だったのか?決して後悔はなく正しい選択だったと思ってきたけど、少なからず、再び、そんな感覚に襲われた。そうして、母がきてから一時間半ほど経った頃、もうどこにも掃除するところが見当たらなくなったので、拭き掃除を終える事にした。母は、まだ、ぺいに声を掛けながら身体を拭いたり撫でたりしてくれている。そんな母を見て思った。ぺいを火葬にする前に、母にも、ぺいとだけになれる時間を作ってあげたい。そういえば、何か他に準備しておくべき事はないだろうか?そうだ。棺の準備は出来ているけど、まだ、棺の中に入れる生花を買っていない。本当なら、今夜、少し出掛ける用事があるので、その時、ついでに買ってこようと考えていたけど、急遽、時間潰しも兼ねて、先に生花を買ってこようと思った。そして、花を買いに行ってくることだけを母に伝えて、私は、花屋へ出掛けた。

 

花屋へ向かう途中、買う花は、やはり少し拘りたいなと思いながら自転車をのんびり走らせた。そもそも、猫という動物に添える花だから形式のようなものには捉われずに自由に決められる。という事は、私のぺいに対する思いを花に込める事が出来るという事だ。だから、ぺいの死は、とても悲しいけど、ありきたりな仏花にするのではなくて、我々に凄く愛された特別な猫に相応しい花にしたいと思った。それと、ぺいの棺を用意している際、あらかじめ心に決めていた花があった。それは、百合の花だ。なぜ百合かというと、それは、何となくだけど、百合独特の白くて大きい優雅な雰囲気が大切な魂に添える花として最も見合う気がしたからだ。だから、百合の花は、とにかく出来るだけ大きいものを選びたいと思った。そして、そんな事を考えながら自転車を走らせていたら花屋に到着した。花屋の店頭には、仏花が沢山並べてある。時間的には、ゆっくりしたかったので、ひとまず一通り仏花も見てみることにした。でも、やはり、仏花は、人間向けという気がする。それと、ぺいの旅立ちには何だか地味過ぎて、ちょっと違う気もしたし、形式的に仏花を選択してしまうと、私のぺいに対する思いは何も反映出来ない事になる。やっぱり、ぺいには、地味過ぎず、派手過ぎず、そんな花が似合う。仏花を見た上でも、そう思えた。それで、まずは、白い百合と明るめの花をチョイスして、それと、バランスを取る為に、仏花の中で何か一番意味のありそうな菊の花を買った。そして、それらを自転車の前かごに入れてみる。すると、カゴ一杯になった。これで、棺の中をお花畑のように花で一杯にしてやれる。ぺいという猫の旅立ちに相応しい葬儀をしてあげられる。そう思うと、凄く嬉しかった。そして、そんな思いを胸に自転車を走らせた。家に到着して、母の様子を見てみると、ぺいとのお別れは、充分に出来た様子だった。

 

さぁ、次は、ぺいが快適に安らげるように棺のセッティングだ。ひとまず、数日前にインターネットで調べた方法を参考に作業を進めることにした。まずは、昨夜、自分で作った棺の底にポリ袋を敷いて、その上にタオル、保冷剤、タオルと重ねて、最後にバスタオルを敷いてみた。もう、ぺいの身体は、すっかり綺麗になっている。そして、母も見守る中、ぺいを、ゆっくり抱えて棺の中に寝かせてみた。「これで綺麗な身体で天国に行けるな」「綺麗な身体で過ごせるな」「良かったな」頭の中で棺の中のぺいに話しかけた。そして、敷いているバスタオルの残りの半分を安らかに眠れよと思いながら、ぺいの身体の上に掛布団のように被せた。そして、バスタオルの上に、買ってきた花を一本一本並べてゆく。でも、花を並べていると、ぺいが花や葉っぱで埋もれて見えなくなりそうになった。これは、ちょっと買いすぎたかな・・・。棺の中に買ってきた花が入りきらないので、花の茎を短く切ったりして、買ってきた花の全てを棺の中に納めた。花の一本一本が、天国に行っても幸せに過ごしてほしいと思う気持ちそのものだった。そして、一本一本の花を、ぺいありがとう、という気持ちを込めながら並べた。正直、ぺいは猫だから、花より団子で全く花になんかに興味はないだろう。だけど、天国に行ったら、沢山の花で埋め尽くされた気持ちの良い世界で、他の動物たちと楽しく幸せに暮らせよ。そう思った。

 

ふと、外を見てみる。もう、日が暮れそうだ。そろそろ母は帰るようだ。「じゃあ、また明日、気をつけて」「うん、分った」「もう、この前みたいにぺいは見送ってくれないね・・・」つい先日、ぺいが母が玄関から出て行くのを見送っていた姿が蘇ってくる。もうぺいは動かない。いくら願っても・・・。もう二度と、あの時と同じ姿を見る事は出来ない。もう、二度と・・・。

 

今日は、ぺいと過ごせる最後の夜になる。私が寝るベッドの直ぐ横に、痛みや苦しみから解放されたぺいが安らかに眠っている棺を、私と頭の方向が同じになるように並べて、「ぺいちゃん、一緒に寝ような」「ぺいちゃん、おやすみ」そんな言葉をぺいの耳に届けるように意識して伝えた。ぺいと一緒に寝られる。至福の時間。でも、これが最後になる。そんな幸せを噛みしめながら、部屋の明かりを消してベッドに入った。そして、隣で寝ているぺいに気持ちを寄せながら目を閉じた。

f:id:pei0823:20160321154328j:plain

八月二十二日(金)

起床と同時にぺいの姿を探した。良かった。まだ生きている。ただ、フローリングの上には、血溜まりが三か所もあった。まだ昨晩から始まった酷い出血が止まっていない。まずは、血溜まりを拭き取って水場の水を取り替えた。それと、朝食の注入については、昨日の夜を最後に暫く中止する事にした。それは、とても食事の消化どころではないように思えたからだ。今日は金曜日。今日さえ仕事に行けば、明日からは、土曜、日曜と、二日間ずっと一緒にいられる。本当なら今日も家に居たいところだけど仕方ない。それにしても、良く生きて、あと二~三日、もしかしたら、今日、死んでしまうかもしれない。そこで、外出前、母に電話した。そして、いよいよ危なそうだから、今日は、日中、こっちに来てぺいの様子を見ていてほしいと伝えた。母からは、直ぐ、「うん、分った」という言葉が返ってきた。母は、ぺいの容態が悪ければ、いつでも駆けつけてくれるという感じだった。さぁ、これで心配だけど出掛ける事が出来る。私は、「じゃあ、ぺいちゃん、仕事に行ってくるからな」「ぺいちゃん、頑張れよ」と、声を掛けながら玄関に歩いた。すると、ぺいは、いつものように歩いて見送りにきてくれた。それにしても、きっと、今、歩けているのは半分奇跡のようなものだろう。身体は痩せこけて、紙切れのようにぺらぺらだし、連日のように出血だってしている。そして、癌の痛みだって凄く辛いはずだ。それなのに、それなのに歩いて見送りに来てくれている。私は、少し誤解していた。昔は、出掛ける前に、もっと何か美味しい餌がほしいという理由で、出掛ける私の足を必死で噛んできていたのだとばっかり思っていた。でも、こんな状況になってまでも見送りに来てくれているのだ。という事は、純粋に、いつも一緒にいてほしかったという事になる。永遠の別れが本当に身近に迫るまで、本当に本当のところは分らなかった。出掛けてほしくないんだよな?本当に一緒にいてほしいんだよな?そんな事を思っていると、これから仕事だというのに、朝から涙が溢れそうになった。それにしても、あと何回見送ってくれるのだろう?この光景を、あと何回体験出来るのだろう?一回一回の見送りが、本当にかけがえのない大切な思い出になる。どんなに平凡な日常であっても、それが、同じ事の繰り返しであっても、永遠に続く事など決して何一つもない。元気であればこその平凡な日々。平凡な日々が、どれほど幸せな事だったのか・・・。そう心の底から思った。「ぺい、ありがとう!」「今日は、おかぁちゃんが来てくれるからな~」「じゃあ、ぺいちゃん、行ってくるよ」「ぺい~」そんな言葉をぺいに届けながら、そして、見送ってくれるぺいの姿を最後の最後まで目で追いながら玄関のドアを、そっと閉めた。あぁ~、ぺい。電車に揺られて会社に向かっている最中にも、見送ってくれたぺいの姿が、ずっと頭に残っていた。けど、そうしているうちに会社についた。そして、いつものように、ぺいの事を忘れるためにも頭を切り替えて仕事に没頭しようと思った。でも、さすがに、今日は、ぺいの事が気になって仕事が殆ど手につかない。もし、死んでしまったら母から携帯電話に連絡が入る。まだ、連絡がないという事は、とりあえず大丈夫だと、仕事中に何度も思った。それでも、今にも電話が鳴るのではと考えると、気持ちは常に落ち着かなかった。そうして、午前が過ぎ、昼の休憩時間になったので、居ても経ってもいられず母に電話してみた。そして、ぺいの様子を聞いた。すると、「うん、今のところ何とか大丈夫だよ」という言葉。良かった。まだ大丈夫だと自分に言い聞かせた。そもそも連絡がなかったので大丈夫だろうという事は分っていた。だけど、まだ生きているという事を確認出来たので、ほんの少しだけど気持ちは楽になった。

 

そうして、定時に仕事を終わらせると家路を急いだ。ちなみに、母に家に居てもらえるのは日中だけだ。だから、祈る思いで凄く緊張しながら玄関のドアを開けた。「ぺい、大丈夫か?」部屋の雰囲気はシーンと静まりかえっている。このところ、ぺいは迎えに来てくれない。そして、そんな静かな部屋のフローリングの上にぺいの姿を見つける事が出来た。その場所は、昔から一番良く過ごしていたお気に入りの場所だ。でも、姿自体は見つけたけど、正直、あまりにも異様な恰好に目を疑った。それは、前脚も後脚も垂直に完全にへちゃげていて、うつ伏せ状態で全身が床面に張り付いた状態だったからだ。例えると、ムササビが四肢を思いっきり広げて空中を飛んでいる姿で、床面に張り付いたのと同じ状態だ。はたして、そもそも猫が骨格的に考えて、そんな恰好出来るのか?それは、絶対に関節が外れないと無理に思えた。私は、信じがたい姿に言葉を失いつつもぺいの顔を見てみた。えっ!明らかに今朝とは違う。瞼は開きっぱなしで瞬き一つすらしない。瞳孔も全く動いていない。私は、「おい、ぺい」と、思わず声を掛けた。それでも、目も顔も尻尾も身体も、何もかも全て動かない。でも、お腹を見てみると、呼吸で、お腹は動いている。良かった。生きている。でも、これは本当に危ない。そう直感的に思った。そういえば、日中の様子は、どうだったのか?私は、母に電話して、まず、今日、来てくれたお礼を伝えた後、ぺいの今の状態を伝えた。母は、いつもより長い夕方頃まで居てくれたそうだ。それで、夕方、帰る時のぺいの状態を聞いてみると、四肢ではなく、後脚だけが、へちゃげていたとの事。今朝の状況と日中の状況、そして、今の状況。母の話を聞いていると、時間の経過とともに、どんどん状態が悪くなっていった事が理解出来た。つい今朝までは、歩いて見送りしてくれたというのに・・・。もう本当に、いよいよ短いな。土曜か日曜。多分、どちらか・・・。そう思った。

 

ぺいの最期の準備を本当にしなければ。まずは、保冷剤の準備。夏場なので遺体を安置している間に必要だと思って事前に購入していた。でも、冷蔵庫内の製氷室で霜にまみれていたので、一旦取り出して直ぐに使えるように製氷室に納め直した。それと、棺の準備。少し前にインターネットで棺の購入を検討した事があった。でも、棺は、燃えてなくなってしまう。どうせ燃えてしまうなら、その分のお金を生花の方に回して、身体を少しでも多くの花で包んであげたいと思った。それで、棺は、ちょうど一週間程前、近所のスーパーから手頃な大きさのダンボールを棺代わりに頂いてきていて、ずっと部屋の片隅に置いていた。ただ、商品名の書かれたダンボールを目にしていたら、ちょっと何か、やっぱり違うな、本当にこのままで良いのか?そんな思いが少しずつ膨らんでいた。それで、日中に閃いた。それは、棺に似合いそうなラッピング用紙をダンボールに貼れば、商品名は隠れるし、お手製の棺を作れるということだ。そこで、早速、家を出て直ぐ近くの店にラッピング用紙を探しに出掛けた。売り場に着いてみると、数十種類のラッピング用紙が置いてある。ぺいが、この世で最後に過ごす場所に一番相応しいデザイン。どれが良いか?当然、棺用のラッピング用紙なんてない。だから、色々な商品を手に取って考えた。折角なので出来るだけ拘りたかった。結局、十数分程、時間を要したと思う。結構迷ったけど、最終的に、色々な動物が遊んでいるデザインのものに決めた。偶然なのか神様の導きか分からないけど、動物の棺に相応しいデザインのものを見つけられて良かった。それと、ぺいの遺影を飾るための写真立てを買っておこうと思った。今のところ、遺骨は骨壺に入れて、ずっと自宅に安置しておくつもりだ。それであれば、なおさら骨壺と一緒に置いておく写真立てがほしかった。そうして、私は、ラッピング用紙と、写真立てを買って急いで自宅に戻った。今日は、もう外出の必要はない。これで、全ての用事が終わったことになる。そして、明日からは二連休。これから二日間、ずっと、ぺいの傍で一緒に過ごせる。ぺいと同じ空間で同じ空気を感じながら過ごせる。そんな一分一秒は、この世で考えられるどのような時間の過ごし方よりも心底嬉しかった。

それにしても、やっぱり、再び自宅に戻ってきても、ぺいは異様な恰好のままだ。上顎の状態が気になったので見てみると、少し乾燥しているように見えた。もう、自分では動けないから顎を水に浸ける事すら出来ない。私は、シリンジに水を入れて上顎が湿る程度に、そっと、上顎の手前側に軽く水を吹きつけみた。

 

ぺいは、こんな時、びっくりして頭を少しぐらいは動かしても良いはずだった。でも、微動だにしない。これは、どういう状況なのか?でも、もし、喉に渇きを感じていたとすれば、これで、少しは楽になっただろう。その時だった。またもや白く動くものが見えた。「えっ!まだいるの?」それは、紛れもない。その正体は蛆虫だ。「昨日、十二匹も取ったのに」私は、発狂した。「どんだけいるんだよ!」「まだ生きてんだぞ!」「いい加減にしてくれ!」気が狂いそうだ。そして、半分正気を失いつつも、昨日と同じようにピンセットで一匹一匹、また、蛆虫を上顎の穴から引っ張り出した。ただ、昨日、結構な量を捕まえた。さすがに蛆虫も残り少ないようだ。だから、なかなか引きずり出すことの出来る穴の開いたところに白い物体が見えてこない。これは、時間の掛る根気のいる作業だと思った。それから、三十分ほど格闘した。それで、結局、また、五匹も捕まえた。「こんちきしょう!」「いい加減にしてくれ!」そう言い放ちながら全部纏めて勢いよくトイレに流した。昨日捕まえたのと合わせると、十七匹も引きずり出した事になる。それも全て一センチほどの長さで丸々と太っていた。それらが全て、上顎の上に開いた穴の中にいたという事になる。穴の先には、どんな空間があるのか?上顎の骨の中は、どういう構造になっているのか?そんな事、分からない。しかし、本当に良くも十七匹もいたものだ。ぺいは、十七匹もの蛆虫が上顎の中に居て、どんな気持ちだったのか?どれ程、気持ちが悪かった事だろうか?ぺいの気持ちを、ほんの少し想像しただけで本当に申し訳なかったという気持ちで、怒涛のように、くやしさが込み上げてくる。本当にあり得ない。ふざけるな!という感情で、また、頭の中がおかしくなりそうだった。でも、そんな事を、どれだけ思ってみたとしても取り返しはつかない。それにしても、まさか上顎の中に蛆虫の巣窟が出来ているなんて思いもしなかった。そもそも上顎という場所は、ある意味、一番、目にしていた場所だった。なのに、それなのに、どうして気づけなかったのか?もっと、早く、もっと、どうして、そう何度も思った。そして、そんな事を思う度に何度も、くやしさが込み上げてきた。

 

そうして時間は過ぎ、夜になったので、夜の食事を注入するかについて考えた。猫は人間と違い数日間食事をしないと臓器に障害が発生して命に危険が生じる。前回の食事は、昨日の夜が最後だったから、ちょうど丸一日経過したことになる。とはいえ、まだ丸一日。色々、情報を収集してみると三日が限界のようだったので、ひとまず、食事の注入は、この危篤ともいえる状態を見極めながらにしようと思った。今のぺいは、トイレに行きたくても砂場になんて辿り着けない。上顎を濡らしたくても水場にも行けない。そんな状態の時に、もし、食事を強引に注入されたら困るだろう。だから、注入という選択肢は絶対になかった。

 

ふと、時計を見ると、二十三時になろうとしている。帰宅後にラッピング用紙などを買いに出掛けたり、蛆虫を取っていたりしていたら、あっという間に時間が経っている。とにかく、買ってきたラッピング用紙で早めにお手製の棺を作っておかなければ・・・。ぺいは、いつ死んでしまうか分からない。当然、糊が乾く時間も必要だ。だから、早め早めで、今夜中に完成させておく事にした。ラッピング用紙には、色々な動物が遊んでいる様子が描かれている。まずは、それらを、ダンボール一つ一つのパーツの大きさに合わせて切る。そして、それらを貼り合わせてゆく。ぺいがこの世で最後に過ごす場所。この世からの旅立ちに相応しい棺。手作りであれば、ぺいがどれだけ愛されていたのか、その思いが表現出来る棺になる。だから、少しでも綺麗に、そして、丁寧に気持ちを込めて作った。でも、想像以上に時間が必要だった。「やっと出来た~」時計を見ると、深夜の一時半。なんだかんだで、二時間半近くも掛った。でも、ぺいのために丹精込めて作った棺でもあり作品でもある。ついに、お手製のオリジナルの棺が出来上がったのだ。ちなみに、材料費は、たったの二百円。でも、値段なんて関係ない。世の中に売られているどんな棺よりも、どんなに値段の高い棺よりも唯一無二の素晴らしいものが完成したと思えた。それにしても、もう夜も遅い。さぁ、寝よう。そう思い、ぺいの様子を見てみると、やはり、へちゃげた状態のままで瞼も開いたままだ。ぺいは、これから先、どうなるのか?いつまで生きていてくれるのか?それにしても、今日は本当に疲れた。部屋の明かりを消して、色々な事を思いながら眠りに落ちた。 

f:id:pei0823:20190611225316j:plain 

八月二十一日(木)

起床と同時に緊張しながらぺいの姿を探した。もう、こんな朝が一週間も続いている。昨晩もぺいの事が気になって殆ど眠れなかった。今日も頑張って生きていてくれている事が確認出来た。でも、容態は日に日に目に見えて悪化している。だから、単純に喜べない。苦しそうな姿を見ていると複雑な心境だ。そういえば、昨晩は、ベッドの上に一度も上がってこなかった。もうジャンプなんて到底無理なんだろう。それにしても、昨晩は、一晩中ペタペタと部屋の中を歩きまわっていた足音が耳に残っている。痛みや苦しさで、眠っていられなかったのだろう。それでも、一つだけ幸いな事があった。それは、部屋の中に血溜まりは見当たらなかったという事だ。一番の心配事だった出血は、ひとまず収まったようだ。これで、何とか今日一日も命を繋げると思えた。そこで、会社に向かう前に母に電話を掛けた。ひとまず出血が止まった事を伝えて、今日のところは何とか大丈夫そうで、やっぱりこちらには来なくても良いという事を伝えた。なぜなら、高齢の母に度々足を運んでもらうのは申し訳なくて、極力、来てほしいと、お願いするのは、最小限にしたかったからだ。そうして、母への連絡を終えて家を出た。でも、その後も、ずっとぺいの事が気になって仕方がなかった。今、部屋のどこで、どうしているだろう?大量出血していないだろうか?もし、帰宅した時に死んでいたら・・・。やっぱり、母に来てもらっていた方が良かったかも?そんな事ばかり考えていた。そうして時間は過ぎ、私は、仕事を定時に終わらせて一目散に自宅に急いだ。最近は、玄関のドアを開けても部屋の中はシーンとしている。もうかれこれ、お出迎えは一か月ほど前からない。大丈夫か?凄く緊張する。部屋に入ってみると、フローリングの床に姿を確認する事が出来た。でも、目は開けてくれないし、尻尾だって微動だにしない。唯一、お腹の動きで、何とか生きてくれている事だけは、暫く見ていると認識出来た。良かった。「ぺい、帰ったよ・・・」とボソッと声に出してみる。きっと、私が、外出していた長い間、孤独に苦しさに耐え寂しかったに違いない。でも、こんな容態だから、身体に触ったり、話し掛けたりすれば負担になる。私は、ぺいの直ぐ傍に座って、ぺいの様子を詳しく見てみた。舌は途中で折れたように後方に反り返っている。それもそうだ。直接、舌が床面に接する度に折れ曲がって、その時間が長くなったことによるものだ。もう元の状態には絶対に戻りようがない。毛繕いをしていた舌。時々、「ぺい、口から舌出てるよ」と、言い聞かせながら何度となく手でつっついた舌。水道の蛇口から新鮮な水を口の中に運んでいた舌。今日は珍しく口を斜め上にして寝ているから上顎の内側まで良く見える。上顎の内側も乾燥して皮膚が黒く爛れている。本当に痛々しい。

 

 あれ?そう思った時、一瞬、何か白いものが上顎の内側に見えた。注意深く見てみると、上顎前歯の直ぐ内側に直径一ミリぐらいの穴が一センチほどの間隔で二つ空いている。こんな穴あったっけ?いつからあるんだ?そう思った瞬間、その穴の奥で何か白いものが動いた。え?何?そこで、暫く穴の中を凝視していると、今度は、その白いものが一瞬だけ穴の外に顔を出した。「何だよ、こりゃ!」私は、やっと、白く見えたものの正体が分った。それは何と蛆虫。以前、あの時、床で見た蛆虫だ。これで全てが理解出来た。「え、おい、ちょっ・・・ちょっと待てよ・・・」という事は、昔、あの部屋の中を舞っていたハエが、ぺいの上顎に蛆虫の幼虫を産み付けていたのか?それにしても、そもそも上顎は、度々、水に浸けていたというのに、よくもそんな場所に寄生出来たものだ。これこそ、青天の霹靂。「ふざけんな、まだ生きてんだぞ!」「蛆虫なんて。もう、本当にいい加減にしてくれ!」大切なぺいなのに。まだ生きているのに。蛆虫なんてあり得ない。蛆虫なんて・・・。癌で苦しんでいるというのに、それを喜ぶかのように蛆虫が寄生して元気に生きて動いている。こんな事、どう考えても絶対にあり得ない。どこまで精神的に打ちのめすのか。今にも気が狂いそうになる。もしかすると狂っていたかもしれない。とにかく蛆虫を摘み出す事にした。摘み出す・・・ピンセット?ピンセットがほしい。でも、ピンセットなんて家にはない。早速、買いに出掛けた。ぺいは、買って戻ってきても外出した時と何一つ変わらない状態で床にいる。私は、早速、ピンセットで憎い蛆虫を摘み出す事にした。でも、そう易々と簡単には摘み出せない。蛆虫の白い体が穴から少し出てきたタイミングで、すかさず摘んで引っ張り出すしかなかった。そして、まず一匹目を引っ張り出した。何て大きいんだ。長さは、一センチ強もある。それも、丸々と太っている。こんなやつが上顎の中に住みついて動き回っていたのか!もう、本当に勘弁してくれ。本当に。私は、完全に心の中で発狂していた。気を取り直して、もう一度、上顎を覗いて見る。すると、まだ白い物体が穴の奥で動いている。再び、穴から少し出てきたところをピンセットで摘んで引っ張りだした。二匹目も一匹目と同じぐらいの大きさだ。そう思った時、ぺいが目を覚ました。でも、まだ穴の中には白い物体が見えている。私は、ぺいが再び寝るのを待った。そして、暫くしてから、また蛆虫の摘み出し作業を再開した。それにしても、下顎は癌で腐敗して完全に失われたというのに、それで、唯一残っていた上顎まで、どうして蛆虫なんかに食い荒らされなきゃダメなのか?まだ生きてんだぞ!いい加減にしてくれ!最初の蛆虫を引っ張り出してから三十分ぐらい経っていた。無我夢中で、結局、十二匹もの蛆虫を摘み出した。それも全て一センチ強の大きさだった。よくもこんなに大量の蛆虫がいたものだ。どれほど不快だった事だろう。もしかして、最近上顎を水に浸けていたのは、この蛆虫が原因だったのか?どうして、もっと早く気づいてやれなかったのか?本当に申し訳なかった。そんな気持ちと、あまりにもショックな現実。本当に頭がおかしくなりそうだ。ちなみに、私は無駄な殺生は一切しない。だから、普段、例えば部屋の中に虫が迷い込んできても外に逃がすようにしている。でも、ぺいを食い物にする蛾や蛆虫だけは憎くて仕方がなかった。「こんちくしょう!」私は、蛆虫をティッシュに包んでトイレに流した。暫くすると、ぺいが立ち上がった。フラフラだ。また足腰が立たなくなってきたようだ。そう思った時だった。少しだけ歩いたところでグシャっとぺいの身体が倒れた。生きていても歩けなくなったら本当に困ってしまう。この先、どうなってしまうのか?

 

 その後は、夜遅くになって、また、出血が酷くなってきた。もう、ベッドの上には上がれないから、フローリングの上には赤い血が付着している。私は、ぺいが移動する度に付着した血を拭き取った。そうして、寝る前に食事をシリンジ一本分だけ注入した。本当は食べ物の消化どころではないはずだ。だけど、出血している分、食事で少しでも栄養を補わなければならないと思った。

八月二十日(水)

 今日も朝起きると真っ先にぺいの姿を緊張しながら探した。日に日に容態が悪くなっているから凄く緊張する。そして、直ぐにフローリングの床面に姿を見つける事が出来た。でも、死んだように横になっている。もしかして・・・。少し焦った。ただ、良く見てみると、お腹が弱々しいながらも呼吸で動いている。まだ大丈夫だ!良かった。また一緒に新しい一日を迎えられたと思った。とりあえず姿は見つけられたけど、深夜の間に何か変わった事がなかったかを確認する為に部屋の中を見渡してみる。また糞が一つ落ちている。以前と同じ一センチほどの固形の糞。いつものようにティシュで摘んで捨てる。でも、糞だけであれば数日前からの事。想定内の事なので特に驚きはなかった。ただ、この日は、いつもと違うものが目に飛び込んできた。それは、血溜まり。直径一~三センチ程の血溜まりが床面に四か所もある。深夜、出血したようだ。ぺいは、私が寝ていた間も、ずっと苦しんでいたに違いない。私は、その間、悠々という訳ではないけど横になって寝ていたのだ。ぺいが苦しんでいるのに何もしていない、してやれない自分。そんな事を思いながら血溜まりの一つ一つを拭き取った。とにかく今日も仕事だから、あまり感傷に浸っている暇もない。ひとまず、いつものように流れ作業で身支度を済ませた。そして、「ぺいちゃん、行ってくるからな~」と声を掛けながら玄関へ歩いた。すると、ぺいが私の後を追って歩いてきた。昔であれば、日常的だった見送り。いつも足を噛んできたので逃げるように部屋から出る事も多かった。あの頃は悩まされたけど、今は、本当に良い思い出。ただ、それだって、つい最近までは、ごくあたり前だったのだ。あと何日、あと何回、見送って貰えるのだろうか?見送りしてくれるという事が、どれだけ嬉しくて思い出に残る事か・・・。そう言えば、一晩経って、また何とか歩けるようになってくれたようだ。でも、凄く大変なはずだ。それなのに、今日も見送りをしてくれるぺいちゃん。ありがとう。本当は、ずっと、一緒に部屋にいてほしいんだよな。俺だって、一分一秒でも一緒に過ごしたいよ。でも、仕事だから仕方ないんだよ。「ぺいちゃんごめんな.・・・」本当に辛い。泣けてくる。私は、部屋を出る時、「ぺい、行ってくるよ~ぺいちゃん」と声を掛けた。そして、後ろ髪を引かれる思いでドアを閉めた。

 

 それから、日中は、仕事をして、日も暮れた頃、ぺいに早く会いたい、そんな衝動を抑えつつ、半分走るほどの駆け足で自宅に戻って、緊張しながら玄関のドアを開けた。ぺいはどこにいる?大丈夫か?すると、直ぐ、ベッドの上に姿を確認出来た。さらに、部屋の中に入ってベッドに近づいてみると、何と、ベッドの上に敷いていたタオルが血で真っ赤になっている。それも、今までとは明らかに違う色。鮮血だった。過去に見たことのない大量の出血。ぺいは、うつ伏せになっている。私は、それを見て発狂した。「ぺい、もう頑張んなくて良いよ」「ぺいは充分頑張った」「皆、頑張ったけど、ぺいが本当に一番頑張った」「他の誰よりも一番頑張った」「世界で一番頑張った」「もう大丈夫だよ!ありがとうぺいちゃん」そんな言葉を何度も何度も繰り返した。もう、こんなに苦しくて辛い思いをするぐらいなら、一分一秒でも早く楽になってほしい。そんな思いだけだった。私は、ずっと、ぺいに「頑張れ!頑張れ!」と、声を掛けてきた。でも、ぺいは、今まで本当に一生懸命頑張ってきた。もう充分だから!もう本当に大丈夫だから・・・、もう本当に・・・。心からそう思った。とにかく、ベッドの上のタオルを取り替えなければならない。タオルは二枚重ねにしていた。なのに、鮮血は、その二枚のタオルも、シーツカバーも通り抜けてシーツにまで達している。あまりの出血だ。そういえば、今日は水曜日だから、日中、母が来てくれていたはず。そこで、出血の連絡も兼ねて日中の様子を聞いてみた。私は、まず大量出血の事を伝えた。続けて、日中の様子も聞いてみると、日中は、特に出血なんてしていなかったそうだ。ただ、兼ねてからぺいの舌が黒ずんでいたり膿が付着しているのが気になっていたので、手で舌を洗ってくれたそうだ。もしかしたら、舌を洗った影響で出血したのかもしれない。話を聞いていて、そんな事を少し思った。でも、いずれにしろ遅かれ早かれ出血は避けられなかったに違いない。そもそも、母だって、ぺいの事を思って舌を洗ってくれたのだ。だから、私は、舌を洗ってくれた事に対しては、「あっ、そう・・・」という言葉だけを母に返した。そうして、ひとしきり話しをして、最後にお願いを伝えた。「明日、もしかしたら死んでしまうかもしれないから、日中、こちらにいてほしいんだけど・・・」母からは、「分った」という言葉が直ぐに返ってきた。私は、ぺいが最期を迎える時、傍に誰もいなくて、帰宅してみたら冷たくなっていたという事だけは、とにかく出来る限り避けたかったのだ。ぺいと一緒に頑張ってきた私と母。最期は、そのどちらかが、傍にいて看取ってやりたい。きっと、母だって同じ気持ちだったのだと思う。